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人に迷惑をかけない


新宿の東南口の大きな階段のたもとに酔っ払ったサラリーマンのおじさんが寝ていた。
倒れてるといってもいいほどに大の字だった。誰も近寄らない。一人の外国人の男の人が「大丈夫?」と声をかけ抱き起こした。おじさんは「ほっといてくれ」と言って立ち上がり、どこかに行ってしまった。

外国人の男の人は「どうして誰も助けないの?」と周りにいる人たちに呼びかけた。僕も何もしなかった一人だ。
若い男が彼に親指を立てながら近寄っていった。「お前の気持ちに同意だよ」みたいなニュアンスっぽかった。外国人の男の人はそうじゃないと肩を組んでくる男を振り払い信じられないといった顔をしてどこかに行った。僕は酔っ払いの人が倒れても近寄らない。近寄れない。というのが本当のところだと思う。近寄って抱き起こしてあげられる人がどれくらいいるのだろうか?そうしてやらない僕は冷たい人間なのだろうか?

「人に迷惑をかけないように。」と言われて育ってきた人は多いんじゃないかと思う。群衆の中にはもちろん面倒なことには関わりたくないという人もいたと思うし、そんなになるまで飲むなんて自業自得と言う人もいたと思う。それは置いといて僕が自分が動けなかったときに感じたのは、他人にむやみに関わってはいけない。と思ってしまったということだった。

人に迷惑をかけない、というのは極端にいうと人に関わらないということになってしまっているような気がする。
人と人は関わるとどうしたって何かしら迷惑をかけてしまう。たとえそれが取るに足らないようなことであったとしても。

傘を持たずに家をでた。雨が降りそうだったけど、まだ降ってなかったので大丈夫だろうと思った。思いのほかバスが全然来なくてしっかり降られてしまった。暖かかったので気にせず濡れていたらご婦人が傘に入れてくれた。僕は大丈夫ですよと言ったけど、いいからと入れ続けてくれた。
僕のせいで彼女の反対側の方が濡れてしまうとしたら申し訳ないなと思った。
でもバスは中々来ないし、Tシャツはどんどん濡れていくしだったのでそれはとてもありがたかった。
新宿で助け起こされたおじさんはとても迷惑そうに外国人の彼を振り払った。僕は「なんで誰も助けないの?」という彼の言葉に耳が痛いなと思いながらも、でもおじさんはやっぱり迷惑そうだったなとも思った。

人は誰かと関わらずには生きていけない。孤立しては生きていけない。無人島で自給自足してる人は別だけど。関わらなければならない。そしてそこには必ず何かしらの互いにとっての関わったがゆえの負担が生まれる。それを迷惑をかけないために関わらないという選択をする。ここには矛盾があるような気がする。矛盾と言うか歪さ。誰かといたって結局、自分自身は孤独なのに、さらに孤立を求められる。それがよりよく誰かと生活していくために必要かのように。

僕の父親は山から落っこちて死んでしまった。ヘリコプターで引っ張り上げられ、心肺蘇生を救急隊員にしてもらった。これはとてもご迷惑をおかけしました。でも彼らがいてくれるおかげで父は山に登ることができていた。彼らに、迷惑をかけないために彼は山を登らなければよかったのだろうか。彼は多分家族よりも山を愛していた。山だけが自分を受け入れてくれた。山なしでは生きていけなかったはずだ。

必要なのは迷惑をかけない、関わらないということではないような気がする。「ありがとう」とか「ごめんなさい」といった関係の中で生まれた負担を関係の中で解消したり、違う形に変化させていくことなんじゃないかと思う。
関わらないということは出来ないのだから。それを本当は関わっているのに、関わっていないかのように振舞うことで納得してもそれは歪な自己責任論のようで、自分も相手も孤立させてしまっているんじゃないか。

その道を選ばせるとき、自分もその道を選ばなければいけなくなってしまう。そんなことしなくても僕たちはそもそも一人だ。生きていかなくちゃならないときに、誰しもにとって迷惑をかけることが必要なら、迷惑をかけあっていこう。ありがとうとか、ごめんねとか言いながら。
「傘に入れてくれてありがとうございます。」

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