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ごり推しされた若林のエッセイを読んで、スッキリしたこと

内省的な私は、外交的な人が評価されやすい世の中を生きづらく感じていたけど
今となっては「ひねくれ者」の代名詞とも言えるオードリー若林のひねくれ思考や生き方、成長を読んで心が軽くなった。
何ら関わりのない若林の心を知っただけなのに、私の心が軽くなるって不思議。

以前、Twitterで
『3ヶ月ぶりによく行ってたカフェに行くと、店員さんに「お久しぶりですね」と言われ、その後そのカフェに行けなくなった。』
というツイートを見かけ
そんな人もいるのか〜〜〜とすごく興味深く感じたけれど
そのツイート対して
「めっちゃ分かります!」というような言葉も
数多く寄せられていたことにも驚いた。

若林もそれと近いものがあるのか
「スタバで飲み物を買えない。恥ずかしくて名前が言えない。キャラメルマキアートならぎりいける。」
「彼女のプレゼントを買いにいけない。友達について来てもらい、更にはその友達の彼女のプレゼントを一緒に見てる、という設定まで設けてプレゼントを買いに行く。」
らしい。
世の中には色んな人がいるんだな、と感じた。

そして、以前読んだ『嫌われる勇気』を
自分の中に落とし込むアシストにもなった。

『嫌われる勇気』の本が言うには

「自分が言ったこと、やったことに対して
どう受け取るかは相手次第なんやから、それを自分がいくら気にしたって無意味じゃね!?」

みたいなことだったと思うけど
当時の私としては
「言ってることは分かる。分かるんだが、実際気にしないなんて難しすぎるぜ、兄さんよぉ。」
といった具合。

ついつい、今の返しは良くなかったかな…と考えてしまう。

しかし、若林の本を読んで改めて
「世の中には色んな人がいるんだな。」と感じた私は
「どう受け取るかは相手次第。それをいくら気にしたって無意味。」と自らの言葉として言えるようになった。

行きつけのカフェで店員さんに「お久しぶりですね」と言われ、カフェに行けなくなる人もいれば、その後も足蹴なく通う人もいる。

スタバでの注文が恥ずかしい人もいれば、へっちゃらな人もいる。

私の発した言葉も、きっと不快に思う人もいれば、嬉しく思う人も、何も思わない人もいる。

うん、やっぱりどう受け取るかは相手次第だ。
気にしたって相手がどう思ってるかなんて分かりようがない。

そして、若林のエッセイの中で
今の自分が1番「なるほど!!!」と思ったことは
『叱る』ということについて。

『叱る』はすごく苦手な分野で
前職で少し上の立場になったときに
仕事をせず喋っている後輩を叱れず一人でイライラしてたことにすごく後悔と反省がある。
喋らず仕事をしてほしいということは
伝えないと、伝わらないしその子の成長にもならない。
叱ることが必要だということは重々承知なんだけども...勇気がいる。
嫌な気持ちにさせるかな、嫌なこと思われるかな、嫌われるかな、と臆病にもなる。

若林はかつて先輩に叱られながら
「はあ?」と思ったことが、
自分が先輩になった今
「あの先輩はこういうことを言ってくれていたのか。」とそこではじめて学び、感謝した。

叱った相手にリアルタイムで届かなくても
数カ月後でも数年後でも届いて「ありがとう」と思ってくれる。

そう考えると、これから私も叱れそうな気がする。
あいにくまだその機会はないのだけれども。
頑張ってみようと思う。

若林の心に触れて
もっと色んな人の考えに触れることで、柔軟に生きられる。と思った。
同じ日本人でも、想像し得ない考え方を持っている人がたくさんいるのに
それが他の国の人となると、もっとすごい世界が待っていそう。

ということで、来年の目標は「英語を勉強する」に決定。

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