村上隆のアニメ「6HP」をアートとして見るためのフレームの提案

年末にテレビ放映された村上隆のアニメ監督作品「6HP(シックスハートプリンセス)」(2016年12月30日 TOKYO MX)について。アニメとしてどうなのかはアニメ界の言説に任せるとして、ここでは美術としてどう見たらいいのか──内容よりも方法論に着眼しながら、作者の意図と作品の位置をとらえるための視点──を記してみる。

メディア(媒体)をメディウム(絵具)にして描く

「6HP」をアートとして見るには、出来上がった動画でなく、その構造全体に目を向ける必要がある。木を見ずに森を見る。ここでは「6HP」が魔法少女ものとして何をいかに描こうとしたかはあまり問題にしない。確かなのはただ、「6HP」は世界初の「現代美術家が作ったテレビアニメシリーズ」であるということ。美術家はそんなもの作らなくていいという声がアニメ界・美術界双方から聞こえてきそうだが、ここで思い出しておくべきはアンディ・ウォーホル。ウォーホルはメディア(媒体)をメディウム(絵具)にして世の大衆の姿、その不安や欲望を大きな図絵に描いてみせようとした。商業ホラー映画「悪魔のはらわた」を監督したし、雑誌『インタビュー』も作ったし、テレビ番組も作った。それらはポップ・アーティストが絵具の代わりに大衆メディアを使って何が描けるかという実験だった。

小説を書いたり、音楽活動を行ったり、映画を撮ったりする美術家は他にもいたし、美術史を遡ればレオナルド・ダヴィンチのように画家は発明家でもあり解剖学者でもあり、何でも屋でありえた。だが、村上は趣味や探究の範疇を越えて意図的かつ戦略的に(いわばウォーホル的な絡み方で)現代日本のオタク文化を自ら体現しようとする。オタクの発生から展開までを、日本美術の様式美や現代美術のコンセプトと照合しながら、より高次のフレームでとらえ直すことでメタ的な解釈と分析を与えようとしている(絵画空間の中心性の喪失と社会のヒエラルキー崩壊を接続したスーパーフラット論は、まさに英米のポップ・アートとは異なる独自のフレームだった)。

だが、その思いは正当に理解されてきたとは言いがたい。1990年代、世界初の美術家によるオリジナルのキャラクター「DOB君」を発表した当初、美術界の反応は無に近かったし、等身大美少女フィギュア「S.M.P.KO2」をワンフェスで展開した頃、オタク界からの反応はといえば冷ややかであるどころか反感や憎悪に溢れていた。俺たちがやっていることを偉そうにアートに盗用するなといった雑言に、村上がどれだけ傷つけられてきたことか。憧れ愛する対象に受け入れてもらえない苦しみは、「オタクになれなかったからアーティストになった」と自身のコンプレックスを公言する村上の超人的な制作の原動力でもあるのだが。

その意味では、「6HP」放映後の厳しい反応はあらかじめ織り込み済みだったはずだ。何より納期に間に合わせられなかったという珍事を、村上監督自らが陳謝するというメイキング映像付きの前代未聞の放映だ。通常なら放送事故級のアクシデントだろう。アニメ界からの厳しい判定は覚悟の上であり、むしろそれをストレートに制作現場に浴びせることで今後の創作エネルギーに変換しようという目論見もあったのではないか。

芸術と芸能、マス(大衆)のアート

いっぽう、美術界からはまだほとんど声が発せられていない。村上がデビューした四半世紀前と違い、今の美術界はけっして魔法少女もののアニメを受けつけないわけではないと思う。たとえば、二年前開催された秀逸な企画展「美少女の美術史」(2014年、青森県立美術館、静岡県立美術館ほか)において「6HP」は少女たちの変身願望を投影した表象として美術史や文化史の中にしっかりと位置付けられていた(この企画展は美術館内と美術史上に「萌え」の形象や概念を見事にインストールしてみせた展覧会としてきわめて重要なのだが、それはまた別の機会に)。

だが、今回、たとえば昨年の「村上隆の五百羅漢図展」を観た31万人の美術ファン(それはもはやマスオーディエンスに近い)に期待されていたのは、やはり具体的な絵の動き──村上の絵画の中に描かれる白い飛沫の軌跡やどろどろと溶け出す物体、増殖する目玉や花弁の回転など、日本美術の様式や現代絵画のさまざまな表現を取り込むようにして描かれたそれらのイメージが日本のテレビアニメの中で動く様相(ストーリーではなく)──だったのだと思う。その意味では「6HP」第1話は未完成すぎた。まだなんとも言いようがない、ちょっと残念、だけど今後に期待、というのが多くの美術関係者や愛好家の正直な感想なのではないか。

絵画として論じることがまだできないのであれば、その外側にあるものについて整理をしながら、続き(これはあると思う)を待つことにする。「表象」について論じられなければ、とりあえずは「構造」として、画面の外にある枠組み(フレーム)を提示することで、今後の鑑賞の前提となる「作品性」を捕捉しやすくしよう、ということで今ぼくはこのノートを記している。

さて、『芸術起業論』を著した村上にとって、美術もマーケットによって成り立つ営みである以上、マスマーケットやショービズでの活動と比して優劣はない。むしろ、伝統的な美術市場よりも大衆を相手にしたものの方がビジネスとして、人気やヒットにおいて嘘偽りのないリアリティを帯びている。日本には真の芸術はない、アートよりオタクの方が偉い、といった彼の極端な言説は日本の美術界に対するプロレス的マイクパフォーマンスであると同時に、ハードコアなポップ・アーティストが20世紀後半を通じて問いかけてきた究極のポッピズム(=資本主義リアリズムとでもいうべきか)の継承と発展のように映る。

ヴェルヴェッド・アンダーグラウンド&ニコは、ロックバンドであると同時にウォーホルがプロデュースした作品でもあった。村上もそれを意識してか1990年代に人気俳優の芸名をめぐる騒動に乗じて自らプロデュースした似非芸能人をテレビ番組やスポーツ紙に露出させるという「加勢大周宇プロジェクト」を立ち上げながらも頓挫したことがある。

shu uemuraとのコラボから生まれ、ヴェルサイユ宮殿の個展での上映、コスプレイヤーによるパフォーマンスイベントといった地下からの仕掛けもセットしながら、テレビ放映に向けられた「6HP」は、ファッション、セレブからオタク、アートまでの異なる階層の文化をつなぎ、最終的にテレビという巨大なメディアとその表層的なテレビモニタという薄っぺらなフレームに収束させる(つまりはスーパーフラットな)プロジェクトとして、実のところは四半世紀前の村上の芸能プロジェクトの延長線上に位置している。

リレーション(関係性)というラインを引く

あるいは、ウォーホルとヴェルヴェッツの関係性に照合するなら、「6HP」というコンテンツより、むしろ「ポンコタン」というアニメ制作スタジオこそが村上の作品というべきものなのかもしれない。もともと自らの制作アトリエを「ヒロポンファクトリー」と名付け(現在の有限会社カイカイキキの前身)、「芸術道場」と名付けたイベントやネット掲示板、さらにアンデパンダン型アートイベント「GEISAI」を主催し、カイカイキキギャラリーでの企画展や出版、さらに近年は中野ブロードウェイにギャラリーやカフェを次々とオープンしてきた村上は、次世代の若手アーティストやクリエーターを育成する場をつくり続けてきた。多くの同世代のアーティストが美術大学の職に就くのを尻目に、美術教育において村上はけっして既存の団体に属さずインディペンデントな組織づくりに徹している。自らの作品の売り上げを投じ、多額の借金をしてまでこうした事業を展開することは、通常の美術家ではなし得ない。だからこそ村上の場合、若手作家をプロデュースし、活躍の場をオーガナイズすることそのものが作品性を帯びて見える。

今回「6HP」を制作したスタジオポンコタンは、北海道在住のアニメーターmebaeを作画監督として受け入れるためにわざわざ札幌に開設したもの。ビジュアル設定を担当したJNTHEDも、当初はpixivで活躍するデジタル絵師だったのを村上が惚れ込み、アナログ画家としての作品制作をプロデュースした経緯がある。二人とも2012年村上がキュレーションしたグループ展「悪魔のどりかむ」でアート界での本格的デビューを果たし、2016年1月にはカイカイキキギャラリーの京都進出に際して二人展も行った。

村上は「6HP」制作にあたって、既存のアニメーターと組むのではなく、自らの門下に置いたmebaeとJNTHEDを育成しながら制作を進めてきた。そのやり方はアニメ制作においては無謀に思えるかもしれないが、90年代に小さなプレハブのスタジオで制作をしていた頃の村上が、作画アシスタントのMr.や青島千穂をスタッフとして養いながら世界デビューに向けた強化育成をしていたことを思い起こせば、それは変わらぬ村上スクールの流儀なのだ。

さらにフレームを拡大すれば、今回の「6HP」の地上波テレビ放映は、従来のテレビアニメ制作システムに村上が闖入することによって引き起こされた事件をメイキングも含めて露呈することで、その過程と関係者の動向を浮かび上がらせてもいる。現代美術には、出来上がりよりもそこに至る過程を見せるプロセス・アートや、人びとの関係性を主題としたリレーショナル・アートと呼ばれるジャンルがあるが、今回の「6HP」は結果的にそういった見方をしたほうがふさわしいのではないか。ここでは、納品日に間に合わないことを放映前からSNSで告白する村上自身の書き込みから、放映時のツイッターのタイムラインまでもが作品の一部となる。

ローンチ(打ち上げ)からリーチ(到達)へ

最後に。蛇足的ではあるがロマンティックな形容をしてみるなら、そのとらえどころのないツイート群は情報空間を四方八方に飛び交い、アニメのミサイルのようにくるくると白い糸を引きながら無数の軌道を描いている。そんな飛翔体となった「6HP」は、もはや地上の美術界からは視認すらできない空中サーカスを繰り広げているようにも思える。

あるいは、「6HP」そのものをテレビアニメの形をした機体にアートのエンジンをつけた謎の飛翔体として見るなら、それは未完成ながらとりあえず放映日に点火され、発射されてしまった。それがどこへ向けて射出されたのか、今後どこまで高度を上げ、飛距離を伸ばし、どこに向かうのか──アート大陸への着地なのか、アニメ大洋への着水なのか、途中で落下してしまうのか、あるいは引力圏を離脱し未知の惑星へと向かうのか、それとも衛星となって軌道を周回し、美術界を探査し続けるのだろうか。今ぼくの頭の中には「6HP」のアニメ本編とは無関係な、しかしものすごくアニメ的ないくつものイメージが喚起されてくる。

開発と準備だけですでに七年の歳月を費やしているが、「6HP」はまだ打ち上げられたばかりだ。第二話以降も続きはあるだろう(と信じる)。静寂の間が続くなか、村上とポンコタンのスタッフたちの次のストロークに、その筆先が下されるポイントが注視される。そうか、これはテレビという放送メディアを使った巨大な「公開ライブペインティング」なのだ。そして、考えてみれば、時間の限界と闘いながら最終回に向かってよろめき苦しみながらも突き進み、その闇の先にある光を描くためにまた苦闘を続けて描いていくというスリリングな共感こそが、日本のテレビアニメシリーズの特徴ではなかったか。「6HP」にはその現実をアートというメタな構造で、ひたすらリアルに映し出していってほしい。とりあえず第一話は無事に(事故じゃなかった、とぼくは結論する)放映された。おめでとう、村上さん。

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