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父と暮らす ④アクリル板を越えて

入院中の母からは、ほぼ毎日電話がある。「2Bの鉛筆を持ってきて」「歯間ブラシが欲しい」「スッキリしたものが飲みたい」。たまに「お父さんは元気?」。

それで、お洗濯物の交換に病院へいくとき、父に何か伝言はないかと訊いてみた。しばし考え込んだ父。

「元気であれば良い」

何だそれ。イノキ? まあ母も、電話を父に代わるかと訊いたら要らないと答えるから、同じようなものなんだろう。そして月に1度の面会日。病院はまだコロナ体制維持中で、10分間だけアクリル板越しに会うことができる。久しぶりに会った老夫婦は、どちらも耳が遠い上フェイスシールドで余計に聞き取り辛く、何だかとてもぎごちない。

どうでもいい会話が途切れたとき、父がふらふらと立ち上がって幅2mくらいのアクリル板を越え、母のそばに行った。何も言わず、両手で母の手を取り、上下に振る。父には振戦があるから、もしかしたらそれが伝わっているだけかもしれないが。母は「あら」と言いながらそのままにしていた。

若いころはものすごく派手に喧嘩していたけれど、耳が遠くなって互いの言葉が聞き取れない今は、争うことも激減した。そして、いつの間にか互いが生きがいになっているんだなあ。母にはしっかり回復して、またのんびり二人の生活を続けてほしい。

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