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ヨソ者の強みはあるのか?


「そこ」へ行けば、私はヨソ者です。「そこ」というのは、奈良県吉野郡吉野町。写真は吉野川にかかる橋から見た夕焼けです。ここの夕焼けは絶景で度々見とれてしまいます!

吉野町は早くから地域おこし協力隊の採用を始めたので、Iターンしている若者が何人かいて、他の地域に比べたら地元の人達には“馴染みのよそ者”になっています。(たぶん(笑)
ところが私はその「地域おこし協力隊」でもなく、親戚や友人が居るわけでもなく、下手をすれば不審者、です(笑)

暮らしの単位は大字

それでも受け入れていただける居心地の良さに、すっかりドップリ浸かり始めた今日この頃ですが、そうした日々の中で少しずつその存在がわかってきた「地区の壁」があります。
吉野町は60年以上前に6つの町と村が合併して一つの「町」になったわけですが、合併前の町や村は地区としてほぼそのままの名称で残されています。
そして、それぞれの地区の間には見えないがあるようです。決して悪い意味ではないのですが、地元の方にとっては、越えにくい壁のようで、ふとした機会に「あ、そうなんだ・・・」と意識させられます。

さらにその地区の中には大字(だいじ)と呼ばれる集落があります。
以前高齢の女性と話していた時の言葉が印象的でした。「ワタシら、山口の事しかわからんし、山口の事しか考えとらんよ」とおっしゃるのです。
“山口”というのは、大字(だいじ)の名称で、合併前の村の中に6~8個程度の大字があったものがそのまま残されているわけですが、そのうちの一つ。つまり隣近所、少なければ十数戸の塊の範囲の話です。

なるほどなぁと、私にはある意味目からウロコ、でした。大字は日々の生活に直結しているのです。そして、心強い結束で結ばれているのです。もちろん、どこの家に誰が住んでいて、子供は何歳で何処其処で暮らしているけど、隣は空き家になってしまった等、誰かしらが把握していて、いざと言う時には心強い関係だなぁ、と感心します。まあ、ある時代までは日本中がそうだったのかもしれませんが・・・

私自身は、昔の所謂新興住宅地で生まれ育ったので、正直なところ、その辺の感覚がわかりません。
しかし、急速に人口が減りつつある状況の中で何か新しいことを始めようとしたら、その壁の存在が“もったいない”状況を生んでしまうこともあるよね、と感じるヨソ者です。

ヨソ者、だから

地元の方にとって、繋いだり渡ったりすることが難しい地区の壁があるとしたら、これはヨソ者がお役に立てるのかもしれない、と思い始めたところです。つまり、ヨソ者だからこそ、できることがあるのではないか?ということです。
私がコーディネート役をする!などと、奢った考えは禁物と心得ていますが、逆に上手く利用してもらえたら、と思ったりしています。
知らぬが仏(?)の部分を知らずに許されるのも、ヨソ者の強みかもしれません。

ヨソ者が入って行けない所は、それはそれで良しとしてスルーすることも必要ですし、距離感の違いはあるけれど、街も地方も一定の距離を保つことが必要なのは同じこと。でも、何かきっかけがあれば隣の地区と一緒にした方がいいよね、という場合のきっかけにはなれるかもしれません。

さらに、私のように外から入ってくる人と地元の人のつなぎ役には、地区に縛られない立ち位置も必要ではないか、とも思うのです。
地区にはそれぞれ特徴があり、そこに魅力を見つけた人にとっていきなり入口を見つけるのは難しい。様々な地区の入口を開拓して誘導できたら、町全体に動きが生まれるのではないか、と妄想中です。

私自身が、少しずつ顔を覚えてもらうことの大切さも実感しているので、顔を覚えてもらうために過ごす期間を仮住まいとして気軽に過ごせる場所があったらいいなぁ、とも思います。
顔を覚えてもらうこと、“人となり”を知ってもらうことで信頼を得ることにより、様々な可能性が広がる気がします。
というわけで、地域に関わりを持ちたいと思って通ってくれる人のための、ゲストハウスの次の段階のような場所、を構想中です。

そんな場所の案内役になれるのは、ヨソ者だからこそ、という部分がある気がしています。いずれにしても、私自身が信頼してもらう立場にならなければ始まらない話なので、まだまだ未知の地区を開拓していきます!

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