『はじめようMinecraft』――ストーリーもゴールもない。自由な世界で子供たちは何をするんだろう?

「ゲーミフィケーションを取り入れよう」
 その言葉をはじめて聞いたときは、素直に「なるほどなあ」と思った。導入先が企業の会議やミーティングであり、目的が問題解決だったからだ。

 ところが、この言葉が市民権を得るにつれて、「ゲーミフィケーションを教育に」とか言うやつが増えてきた。そりゃ違うだろと思った。

 ゲーミフィケーションを「ゲーム化すること」と定義するならば、学校教育とは、受験とは、ゲーミフィケーションそのものなのだ。点数を多くとったやつが勝ちって、ゲーム以外の何物でもないじゃないか。
 
 いやいや違うんだ、ゲーミフィケーションとは日常の教室をたのしくすることなんだ。そういう意見もあるだろう。しかし、授業にゲームの要素を取り入れ、たのしい教室を作る作業は、優れた教師なら大昔からやっている。教師には向学心旺盛な人が多いから、勉強会を開催して、それを共有していこうという動きもある。
 
 あなただって、おもしろかった授業の思い出のひとつやふたつ、あるでしょう? そういうとき、先生はゲーミフィケーションを取り入れていたし、あなたはそれに乗っかっていたのだ。
 だから、「教育にゲーミフィケーションを」とか語るやつの意見は、眉に唾して聞いていた。思ったとおり浅薄な意見が多かった。
 
 むしろ興味があったのは、「ゲーミフィケーションに乗り切れないやつはどうしたらいいんだ?」ということだった。
 先生が呈示したゲーミフィケーションに、作為を感じてしまって抵抗を覚え、いじけちゃって参加できない。そういうやつは絶対にいる。自分がそういうやつだったからわかるんだ。彼を組み込むにはどうしたらいいんだ?
 残念なことに、ゲーミフィケーションを語る人に、これを問題としている人はいなかった。たぶん、別の文脈で語られていたんだろう。

 マインクラフトは、ゲーミフィケーションとは無縁のゲームである。正確には、ゲーミフィケーションを包含するゲームというべきか。
 
 マインクラフト(以下マイクラ)の中の世界で、プレイヤーは自由にふるまう。城を築くやつもいるし、道をつくるやつもいるし、牧場経営に乗り出すやつもいる。マイクラには、ストーリーも、ゴールもない。要するに何をやったっていいわけだ。
 そういう場所では誰かを管理することはできないし、意図したように動かすこともできない。みんなてんでんめいめいに好き勝手なことをやる。そこには、個性とか記憶とか能力とかテクニックとか、個人が備えたさまざまなものが表現される。
 
 そんな中、プログラミング言語の優位性は、ハッキリと示されている。三匹目の子豚よろしく、ブロックを積み上げて伽藍を築くことはもちろんできる。だが、言語を知っているならば、伽藍を構築するために時間はかからない。積み上げ野郎が家を一軒建てるのと同じ時間で、言語を扱うやつは街をつくる。ここまであからさまに言語の優位性が示される例は、そうそうないだろう。

「マインクラフトの登録をしたいんだけど、登録するにはクレジットカードがいるだろ? お母さんの許可がないとできないんだ」

 そんな小学生の不満を聞いたことがある。なんと答えたかは忘れたが、「知るか」か「お母さんに頼んで許可をもらいなさい」のどちらかだろう。
 今にして思えば、あれこそがアーリー・アダプターの姿だったんだな。アーリー・アダプターなんて言葉が使えるのは、マーケティングの勝者だけだ。そう教えてくれたのは彼とマイクラである。
 その後、マイクラはどんどん広がっていった。アーリー・アダプターだったそいつは、マイクラで世界を作りながら、いつの間にか高校生になった。
 
 マインクラフトと教育をテーマとしたイベントが、早稲田大学で開催された。タイトルは「Minecraft × Education こどもとおとなのためのMinecraft」。さまざまな人が登壇して、種々の催しが行われた。

 楽しみなのは、まさにアーリー・アダプターだった二人の元・小学生、現・高校生の発表だ。彼らの半生は、マイクラとともにあった。きっと彼らにしか語れないことを語ってくれるだろう。

 この本はまさに初心者向け。ひととおり読めば、マイクラがどういうゲームかわかる。

 
(2015年7月)

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草野真一

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