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ヨシコちゃんのこと

前回書いたヨシコちゃん。家族全員が高潮にのまれて死んだことも知らず、私の家で元気いっぱいだった。私は兄二人、姉一人いるが、全員、おとなしい、手のかからない子(後々母の言うには)だったので、母はヨシコちゃんに振り回されていたようだ。

まだ海水は引いていない。たった一枚無事だった畳をミカン箱をいくつか並べた上に置き、私とヨシコちゃんとネコのタマはその上に乗せられていた。

両親と兄姉は泥水の中を動き回っている。今ほど物はない時代だったが、それでも海水に浸かった家の片づけは大変だったと思う。

私はタマを抱いて『アルプスの少女ハイジ』をめくっていた。ヨシコちゃんは畳の上で大はしゃぎ、何回も畳から泥水の中へ落ちた。

母が叱った。「また汚して。リュックに入れておいた分は大事に使わないと。今度下着を汚しても替えはないから」

「そんな言い方をしてはいけない」と父が母をたしなめた。私は母を意地悪な人だとその時は思った。だが、今では母の気持ちが分かる。今と違って着替えの下着が配られることなどなかった。すべて自分で何とかしなければならなかったのだ。

ヨシコちゃんはそれでもケロッとして大騒ぎだった。

でも、『ハイジ』だけはよほど気に入ったのか、疲れると「その本見せて」。そして食い入るように『ハイジ』を眺めていた。私は筋を覚えていたのでお話してあげた。

家の外はまだ海。タマが私の手を振り切って海水に飛び込んだ。私の悲鳴を聞いて兄が海水の中に飛び込んでタマを救い上げた。

そんなことははっきり覚えているのに、何を食べたか、どこで用を足したかはまるで覚えていない。

ヨシコちゃんは一週間ぐらい私の家にいたような気がする。当時は大混乱で子供どころではなかった。白い服を着た人たちが赤痢予防に消毒剤を蒔いていた。イヌやネコの死骸が燃やされていた。

母の顔が険しくなっていった。父は「家族が誰もいなくなったんだ。迷惑そうな顔をしてはいけない」それから母の泣き声が聞こえたような気がする。

ある日、男の人が二人来た。「ヨシコちゃんのこと?」私が訊いても誰も応えない。

ヨシコちゃんは黙って『ハイジ』に食いついている。今、思うと、子供心に考えることを拒否していたのだろう。

二人の男の人は、父に紙を渡し、何か書いてもらうと、ヨシコちゃんの手を引いて出て行こうとした。ヨシコちゃんが振り返った。

「ハイジ、貸して」「うん」「明日返しに来る」「うん」

その頃、本は高価な物で、『アルプスの少女ハイジ』を持っているのは、この辺で私だけだったと思う。近所の子がよく本を借りにきたから。

ヨシコちゃんは『アルプスの少女ハイジ』だけを持って消えた。

「どこに行ったの」と訊いても両親は応えなかった。兄が「施設に入れらる」とささやいた。

あのころはまだ戦災孤児もいた。戦災孤児の寮があり、その名は子供でも知っていた。そこに台風で孤児になった子供を入れたのだろうか。

あのころ、親のない子は大勢いた。親戚と連絡つかない人の方が多かったし、親戚が見つかったとしても人の子を育てる余裕のある人はいなかったと思う。

大爆撃を受け焦土と化した鹿児島市にはまだあちこちにバラックのような家があった。

そんな時代だったが、「生活保護」のような制度はあったと思う。学校で先生が「ホゴの子はこっちの列」と言って鉛筆を配っていたことがあったから。

「ヨシコちゃんはサーカスに売られたんだよ」とか「アメリカに売られたんだって」

子どもたちはひそひそささやいた。

顔も覚えていないのに、そんな光景の断片が脳裏に焼き付いている。

20年ほど前、鹿児島市に旅行した。バラックが並んでいた海辺には豪壮な輝くようなホテルが建っていた。水没したあの住宅地は小奇麗な高級住宅街になっていた。

私は思った。

過去というものは幻のようなもの。あったと思えば「あった」。なかったと思えば「なかった」。そんなものかも知れないと。

変わらずそこにあったのは美しい桜島と錦江湾だけだった。

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