それは「本物」の気持ちなのか

私は動揺している。お前は誰だ。

私には今、少し興味があってウォッチしている方がいる。
氏は時々、「本物」「偽物」というものにとてもこだわっているようだ。
私が氏にとって「本物」か「偽物」であるかは「他人のものさし」であるのでさておくが、私は氏の言葉に対して強く「動揺」した。
氏の思惑とは全く違う方向に動いてしまっているかもしれないが、あえてここは私の「動揺」について書いておこうと思う。

(※話すら違うと思いますが、私が自分の気持ちを整理し直すためのきっかけにした、くらいに思ってほしいです)

それはある種の「指摘」とも言えるので、これを「図星」ととってあざ笑う人間は多いかもしれない。

私はいつでも「自分の心に正直でいたい」と思っている。
何気ない行動もあるだろうが、それなりに確信を持つようにしていたはずだ。
しかし外的刺激により、その確信のようなものはあっさりと揺らぐのである。
自信がないのかもしれない。

ここで言う「動揺」とは、「私の気持ちは本物か?」という私自身への問いかけだ。
外的刺激をそのまま自分への問いかけへと変換したのだ。言うなれば先程の「指摘」とは、私の勝手な脳内変換だ。

はっきり言って、私にはこういうことがよくある。
こんな時、私はよく逃げ出していた。
もうお前に興味はなくなったよ、みたいなことを心の中で吐き捨てて忘れることにしていた。

だが、今回は少し考えてみた。ひらめいた。

恐らく私は、「自分の心に正直で」というルールにはきっちり従っていた。
先述した私の「動揺」、言い換えればこれは「不安」だろう。
単純に私は「不安」から逃げ出したのだ。

しかしこれには盲点があった。

自分の気持ちはたった一つではなく、色々なものが混ざることがある。
そして、それぞれの「強さ」にも大小があるのだ。

つまり私は、「数種類の気持ち」の可能性や「小さな気持ち」の存在を全て無視して、『本物か(=強い)否か(=ない、あるけど小さい)』という二元論を展開していたのだ。
私は「少し興味がある」「ちょっと好きかも」よりも、たった今生じた「強い不安」だけを「本物」だと思い、従ってしまったのである。

堂々と振る舞うようにしていたので気付かなかった(あるいは忘れていた)が、恐らく私は「不安」の心がすこぶる強い。
「不安弱い」というよりは、「不安ものすごく強い」。感情的には冷静(あるいは攻撃的)でいられる精神を持っていただけで。

正直これにはかなり驚いた。
私は自分が思っている以上に、自分の心の分析が下手なのかもしれない。
あるいは、丸一日何の外的刺激も受けずに一人で考える時間が必要なタイプか、なのだろう。

「自分の心に正直」であるためには、正確な分析が必要だ。しかし、私はどうやらまだ未熟であるようだ。
時々自分の心を読み間違ってしまうかもしれないが、大目に見てほしい。
誰に許しを請うておるのだ。

気持ちには「育つ」段階がある。
私の気持ちが「本物」かどうかは、「まだわからない」ということにしよう。
それをはっきりさせるためにも、時々にでも氏の様子を覗いてみよう。
実に利己的である。

私は「本物」にこだわりすぎて、他の小さな真実を全て見失ってしまっているのかもしれない。