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『穴窯の中で、見つめ続けた私そして出会えた本来の私』


                                                    2020年2月24日

泥の中から咲くパールピンクに輝く蓮の花々。
 その蓮の一つの花弁の中で、私はふと目が覚めて空を眺めていたら、人々が喜んでいる声が聴こえてきた。

 「喜んでもらえたのならよかった。ここは、本当に美しいなぁ。うっとり、うとうと。」

                     ~信楽の陶芸家、飯山園子~


 “信楽の女流陶芸家”と聞けば、今話題のNHKテレビ連続小説「スカーレット」を想像する人も多いと思う。

 まさにスカーレットを題材とした東京での企画展を目前に控えた、陶芸家・飯山園子さんのご自宅で、“焼き物づくりと、その人生の歩み”に纏わる話を伺った。

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           <写真>轆轤を使い器の形を作る、飯山園子さん。
               彼女は、1974年福島県田村市生まれ。
               1999年に信楽の地に訪れて以来、
                  『陶壺造(とうつぼづくり)』
                  という屋号で、陶の世界に尽くす。


「これは今春の個展で出す新作で、“ドブロクぐい呑み”と呼んでいます。」

 湖国の広い空の下、飯山園子さん(以下、飯山という)の工房を兼ねた自宅は、意外にも閑静な住宅地の一角にあった。吹き抜けの玄関ホールの隅には、鋳物の薪ストーブが置かれていて、和やかな暮らしぶりを思わせるし、ナチュラルな空気感の漂う素敵なお住まいだ。さらにそこから地続きの土間が、飯山の工房スペースになっていた。作業台を中心に、作陶に用いるいろんな道具が配置されていて、辺りの其処此処に、大小のお皿、うずくまる花入れや、作りかけの酒器、そして、展覧会へ向けた備えであろうか、フタの開いた段ボール箱からは荷詰めの様子が見てとれる。これは、元より陶芸ファンの筆者にとって目にも楽しい光景だ。今日は、取材のために少し緊張していたが、今からどんな話が聞けるのかとワクワクする気持ちは自然に高鳴る。

 家の奥にあるリビングに案内され、椅子に腰を下ろそうとしたその時、目の前のキッチンに並べられた焼き物の姿にふいに惹かれ、思わず立ち上がりそれを手に取った。
 飯山が、あえて低い焼成温度で窯を焚くことにより仕上がったこの酒器は、焼き締まりが甘く、清酒を注ぐと地肌から水分が染み出てしまう。そこで、米の成分の多い濁酒なら水止め効果の期待が持てるということで、そう命名したという。
 一風変わったこの焼き物が、飯山自身が今まで歩んできた道に由来することを、後に知ることになる。

★記事に採用写真

            <写真>飯山園子作・酒器『ドブロクぐい呑み』


「人の役に立つような焼物屋でありたい。」

 飯山は、陶芸学校を卒業してから今日までの18年間、独立した作家として、たった一人で幾つもの“窯”を築きながら、焼き物作りに励んできた。しかしその一方で、窯場の外に出て、アルバイトに行くこともずっと続けているという。その理由について、彼女は話してくれた。

 「“自分が焼物屋としてどうやって人の役に立ってゆけるか”を大きなテーマに掲げて窯焚きを続けてきたのです。」

 「しかし、今はまだ、役に立たないような焼き物ばかりを作っているという意識があるので、できるだけ陶芸の仕事にリンクしそうな、発掘調査の資料整理であったり、現代美術家のレリーフ作成を補助したりというアルバイトをしながら、その中で陶芸家として自分を役立たせる為のヒントを得ながら、模索している最中です。」

 陶芸家という職業に、どこか孤高のイメージすら思い浮べてきたのだが、飯山の心はむしろ世の中に向かって開いていた。彼女は、他人事でも人手が足りない、探していると聞けば、時には自腹を切ってまでして手伝いに行くという。例えば、アメリカや韓国の陶芸家が窯を焚くからと身銭でフライトした。それどころか陶芸とは関係のない、ご近所さんの子守、秋は稲刈りの手伝いなど、方々からの求めがあれば喜んで応じてきた。そのフットワークの軽さも去ることながら、いずれは自分自身の生業も、人の役に立たせる地点までどうにかして距離を縮めたいという、飯山の熱意が伝わってくる。

 「・・・そうするとね、結果としてですが、自然に人とのご縁も繋がっていって、自分の作品に意見やアイデアを貰えたり、時には収入に繋がることもあったので、私が志す陶芸活動と並行して、誰か他の人のお手伝いに行くことを、両輪としてずっとやってきました。」

 飯山の無心の行動は、巡り巡って陶芸家としての彼女自身の今の在り方にまで還元されていた。飯山にとっての第一義である窯を焚くこと、そして、一時はそこから離れて他者のために心を尽くすことは、生命活動に無くてはならぬ呼気と吸気のリズムのように、彼女の営みの中で有機的に結びついているのだろう。そのことを、他ならぬ飯山自身が実感をもって話してくれた。


「ゆくゆくは、神様に献上するような品物を作っていきたい。」

 飯山が、初めて信楽の地を訪れた20年前、日本工芸会員が開いたワークショップに参加した時の印象について、(京都にある)彼らの一門から人間国宝も出たからであろう、“自分たちが日本の美を牽引している”という気概と志の高さに触れたのが、とても気持ちよかったのだという。そのことが今でも飯山の心に残り、彼女の陶芸に懸ける心志を鼓舞し続けるため、そして、いずれ“自分が目標とするところ”まで導いてくれるかもしれない、という密かな期待を込めて、彼女自身もまた日本工芸会に身を置いている。

 そして飯山は、少しばかり憚る気持ちを表情に浮かべつつ、その胸の内を話してくれた。

 「私が最終的に、どんな風な焼き物を目標にしているかというと・・・、ゆくゆくは神様に献上するような品物を作っていきたいと思っていて、そういう依頼が来るように道筋を歩みたいという気持ちがあるんです。」

 「もしかすると、本当は神様に神職として仕えるのが良いのでしょうが、その代わりに焼き物を納めたいのかもしれません。・・・上手くは言えないのですが、自分自身は捧げもので良いという意識があるんです。」

 彼女の告白にも似たその言葉を聞いた瞬間、哲学的な気持ちの高ぶりを覚えたと同時に、はたと“使命”という言葉を思い浮かべた。そして、次にこう切り出さずにはいられなかった。


――飯山さんは、“自分が生まれてきたことの役割”を考えることがありますか?

 「昔の私は、自分の役割が何なのか分からず、焼き物を始めるまでは、自分がどこに身を置けば良いのか、何を指針にして生きれば良いのか定まらずに、心の軸がブレて大変でした。でも、窯焚きを始めて2回目の時に、腑に落ちたという感じがしたのです。」

 当時の飯山は、窯焚きの方法が充分に分かっておらず、焼成に必要な温度まで熱が達せずに四苦八苦していた。
 通常、薪窯で温度を上げるには、薪の材質や窯内の状態に応じて、薪の本数を選び、それらを然るべきタイミングで適所にくべる。場合によっては、季節や時間帯、大気圧まで考慮に入れることもあり、レシピよろしく紙には簡単に書き切れない、いわゆる職人の肌感覚なるものが求められる世界だ。
 三、四日をほとんど眠らずに窯場で過ごした飯山だったが、すでに体力的には限界を迎えつつあった。そんな中、ちょうど朝日が昇ろうとしていた時分、彼女はその数日後に控えた展示会で、一緒に出展する予定の別の陶芸作家に宛て、メールを送ろうとしていた。
 「ごめんなさい無理かもしれない。」

 「どうしても窯を焚かないといけないという状況だったので・・でも、温度が上がらないし全然焼き物が焼けていない・・・。」

 そうメールで送ろうと思った飯山が、二つ折りの携帯電話の送信ボタンを押そうとした、まさにその瞬間。急に彼女の体は無意識にも働いて、その携帯をパカッと閉じたのだ・・・!


「これからここに来る人は、自分の理想的な人で、絶対に諦めない人。どんな時でも現状を前向きに捉えて先に進んでいく。」

 その時の飯山は、半ば無意識にもずっとこう呟きながら、窯場のそこら辺に転がった薪やその他の物を拾い集めて、そして町まで少しの灯油を買い求めに行き、僅かな薪をテキパキと組み上げ火を灯した。すると最後には温度が上がって、窯焚きができたのだという。それ迄は、全然できなかったというのに。
 当時を振り返り、飯山は言う。

 「その時、私はただ呼吸していただけなんです。もう三日、四日も寝むらずの後だったので、意識も朦朧とした状態なのに、たった二時間くらいで段取り良く全てをやり遂げたんです!」

 「そして実は、私の中の奥底に・・・、本来人間に備わっている特質みたいなものを感じて、多分古代の人たちはそういう根源的な力を使って生きていたのだろうということが、スカッと分かったんです。だから信じられました、自分自身のことも。そして、人間の特質について腑に落ちました。」

 ほとんど諦めかけていた飯山は、土壇場の状況に立たされた時、なりふり構わず勇気を振り絞って“自分を信じぬいた”。それは同時に、彼女自身を覆っていた固い殻を破る瞬間でもあった。


「その窯焚きをするに至ったお蔭で、私は今も生きていると思っているんです。」

 「その時までは、私は自己否定が強かったところがあったのです。例えば、自分は今ここに居てはいけないんじゃないかとか。自分が神さまへの捧げものとして何時天に召されても良いとか・・・。生きている実感がずっと無かった暮らしぶりだったので、その窯焚きをするに至ったお蔭で、自分は今も生きていると思っているのです。」


 ――飯山さんは、それ迄、自分自身を認められない気持ちがあったのですか?

「自分は罰されて当然だと思っていました。そして、そのトラウマの意識を乗り越えるために・・・。」

 飯山は言う。穴窯での作業は、火傷をしたり、狭い窯内にある物などにぶつかったりして、自分の体を傷つけるので、実のところ、彼女自身の中でのドメスティックバイオレンスのような感覚があったと。そのことに対して、周囲からは当然にして反対の声が上がっていた。

 「過去6年間、穴窯をやっていたのだけれど、それはまるで自分への体罰の連続でした。ほんとに辛かった面があって・・。」

 穴窯といえば、古墳時代から続くといわれる、薪を使って焼く伝統的な技法だ。例の『スカーレット』でも、主人公の喜美子が苦労しつつも奮闘する様子が描かれていたが、現代の主流であるガス窯や電気窯、灯油窯と比べると、燃料代(薪代)が高価なうえ、薪を窯まで運んだり、くべる際の作業量、焼成中の管理や焼成後の掃除など、人手も沢山かかる割に、作品の破損率がとても高い。

 それでは、何故に飯山は、こうまでして直向きに穴窯にこだわり続けてきたのか?確かに、穴窯には、例えば高温の火力によって溶けた灰が、自然の釉薬となって器に被るなどして、実に個性的な風合いの作品が焼けるという、何ものにも代え難いメリットがあるが、飯山の掴みたかったものは、そこだけに留まらなかった。
 この後、彼女が続けざまに話してくれた“幼少期の体験”に、その答えを求めた。

 「私の親は、そうは思ってなかったけれど・・・小さい頃の私は、虐待を受けていると思って育ちました。父親は古風で、育て方も理性よりもゲンコツってところがあったのです。」

 飯山は、過去に由来するトラウマを抱えたまま、自らの存在価値を見失いながら生きてきたのだ。
 そんな飯山にとって窯場は常に、一人静かに己と向き合うための清逸な空間であり、“私”という存在の感触を確かめる場所でもあった。
 二回目の窯焚き。信楽で志した道は始まったばかりだ。そんな中、“もうこれ以上焼くことが出来ない”という進退窮まる状況こそが、飯山の背中を強く押した。恐らく普段の彼女なら、最も難しかったであろう “自分を信じぬく”という選択肢が、最後の手段として残された。その時飯山は、いわば過去を手放し、未来を掴もうとしていた。

 「 “自己矛盾”を乗り越えるためには、私にはこれくらいのエネルギーが必要でした。もっと賢かったなら早く分かるんだろうけど、どうやら私は、体感して限界を超えてこないと腑に落ちなかったみたいです。」

 過去の窯焚きでは、眠らずに、もんどりをうって、ずっと傷だらけでズタズタになっていたと話す、今の飯山の笑顔はとても清々しい。

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      <写真>飯山園子作『白雨紋手捻壺(はくうもんひねつぼ)』


「なぜ、私が低い温度で焼きの甘い窯焚きやってるか、なんですが・・・」

 焼成温度を適切に上昇させるため、バーナーなどを使用すると上手くいく。それにも関わらず、彼女はわざと温度の上がらない窯を作り、窯焚きの最中も温度が上がらぬように、あがらぬようにと注意しながら、6年もの間焼き続けてきた。

 「・・・その事は私自身でもずっと謎だったの。その理由を自分なりに考えていて、今ようやく気づいたんです。」

 「私は未完成なものに惹かれていて、多分それは自分自身が未完成なものだから・・・そんな自分を捨てたくなくて、むしろ、未完成な私自身を肯定したいがために、その焼き物を焼いているんじゃないかなと。」

 「未完成であるとね。完成した部分までの想像力で補うところが美しいと思っていて。例えば、発掘された土器がたとえ焼け損じていようと、その美しさは私には分かるという確信があるんですよ。」

 「私は、人間は誰しも未完成なんじゃないかと思っていて。でも、その未完成さの中の・・・完成体に行きつくまでの隙間は、人間の想像力で美しさとして変換できるところに私は価値を見いだしているんです。」

 飯山は、“こうであれば美しい”という理想を胸に、一つ一つ薪を手にとり火をくべる。彼女の窯焚きは、まるで見えない道に灯火を照らすような行為だ。
 未完成であるということは、決してマイナスな事ばかりではない。“足らない”ことから、“在るということ”に対する有り難さに気づけたり、未完の景色の先には、広がる世界の美しさに想いを馳せることができるというものだ。
 未完成な自分を許せなかった過去は、不屈の窯焚きを経て燃え尽きた。今、自分自身をまんままるごと抱きしめた飯山が想い描く未来は、冒頭の“ドブログぐい呑み”の姿に映し出されている。


 「“恥ずかしいと思うからこそやる”ということが結構あるんですよ!」

 「例えば展示会をするにあたって、自分の作品が、人に見せるには恥ずかしい物であったとしても、逆に勢い込んで “やるやるやる!” という具合に。それは私自身のことを認めて欲しいとか、劣等感に由来するような負の性質のエネルギーなのかもしれませんが、寝食を忘れて没頭できるものであるなら、すごく有意義なんじゃないかと思っているんです。」

 「ただし、ゆくゆくは、もっとナチュラルで、もっとフラットな、それこそ誰か身近な人の幸せを願えるような方向に整えられる方が、物事全体として良い循環に繋がってゆくだろうなと思っています。その発端はどうであれエネルギーは常に必要です。そして同時に、自分が“善し”と思うところにチューニングしていくことも、実は大切なのだと今は思います。」

 飯山が、自らの内から湧き出たそのエネルギーを愛おしく受けとめているように感じられた。そして思った。エネルギーもまた然りだが、世にある全ての人・物・事には、きっとそれぞれに相応しい場所なり、在り方というものがあるのだろう。もしも、其処に辿り着けたのなら、どんな小さな種であろうと、生来に秘めたる花を開かせるに違いない。


 「フラットな自分でいるためには、どのような状況に置かれても、楽しみや学びと捉える覚悟と、そう思い続けるための環境作りが必要ですよね。」

 「ある時私は、展覧会に出品するのに、こんな失敗続きのリスクの高い穴窯ではもう焼けないと思って、信楽の陶芸の森にある“イッテコイ窯”という小さい窯を借りて焼いてみました。・・・そしたら、その焼き物で賞を頂いたのです。その時に貰った賞金で、私は自分のイッテコイ窯を作りました。それからというもの、三、四日もかからない間に品物が焼けるので、体罰をしないで済むようになったんです!不思議なことに、その当時付き合っていた彼とも交際が進んで結婚もできました。」

 飯山が真に求めていたもの。それは思いがけず、彼女が全ての過去を洗いざらい清算したタイミングでやって来た・・。少しばかり飛躍していると思われるかもしれないが、それでも、誤解を恐れずに敢えて言いたい。それが“未来へ向かって進む”ということではないだろうか。

イッテコイ窯(飯山園子作)

      <写真>信楽にある、飯山園子さんが作った『イッテコイ窯』


 「以前、旦那さんと言い合いになった時に、私自身のある事に対して指摘を受けたことがありました。その時の私は、『ありのままの私ではダメなのかな・・・自分はダメな人間なのか・・』と一瞬思いそうになったのですが、でも逆に、『これは学びだ!』という風に思考転換したいと思って、その為の環境作りも必要なんじゃないかと考えました。そして、その事について旦那さんとじっくり話し合った結果、お互いにダメ出しをするんじゃない、もっと前向きな言葉の表現をしようと決めたんです。」

 飯山は、現在はようやくフラットな循環に身を置くことができるようになってきたという。彼女へのインタビューの最中、終始彼女の気丈さに触れ、そして、彼女自身の放つ安堵感に満ちた雰囲気に包まれていた気がする。
 飯山は、実は昔からずっと、我が身の中に未来への種子が宿っているのを、無意識に知っていたのではないだろうか。そのことを朧げに感じはすれども、気づき、理解するまでには相応の時とプロセスを要しただけなのだ。そして、その事はきっと飯山に等しく、世の皆々にも当てはまる事なのだろう。

 筆者はこの取材を行うにあたり、飯山に是非とも聞いてみたいことがあった。

 ――飯山さんは、この先に続く“夢”をお持ちだと思います。 試しにで結構です!その夢は、世界にどんな花を咲かせるのかをイメージしてみてください。そして、その花を見た人達が喜んでいることを想像してみてください。その光景をみた飯山さんは、何と思われるでしょうか?

 この質問に対する飯山の答えは・・・。
 ・・・少し遊び心から、この話の本編を植物の根や茎や葉に見立ててみる。そして、飯山が答えてくれた“未来に咲く夢のイメージ”を、“花”にたとえてその冒頭に活けることにしよう。其れを以て、この記事の結びに代えたい。


記事/日下部辰朗
写真/飯山園子作・酒器『ドブロクぐい呑み』・・・日下部辰朗
飯山園子さんの横顔、飯山園子作『白雨紋手捻壺(はくうもんひねつぼ)』、信楽にある、飯山園子さんが作った『イッテコイ窯』・・・飯山園子さんから提供

~おわり~


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