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黒川巖 -ホンモノの絵画-

 全国各地のアウトサイダー・アーティストたちを取材していると、取材を拒否されるケースも少なくない。今回ご紹介する黒川巖(くろかわ・いわお)さんもそのひとりだ。

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 かつて、彼の自宅兼アトリエが『2ちゃんねる』で「お化け屋敷」などと酷評を受け、それがきっかけで、2012年に『日刊SPA!』の取材を一度受けてしまった結果、若者たちが毎夜家の周りを取り囲み、自宅周辺にタバコの吸殻を撒き散らしたり庭に卵を投げ込んだり、ひどいときは二階の窓ガラスを投石で割られたこともあったという。黒川さんは、その後一切の取材を拒否。今回、何度かの交渉により特別に取材させていただくことができた。おそらく彼にとって最後の取材となる。

 近年の珍スポブームとも呼べる状況は目を見張るものがあるが、読者の皆さんはこのような弊害があることを忘れないでいただきたい。そして、この原稿を読み終えた後、彼の自宅を捜索するようなことは控えてほしい。「穏やかに暮らしたい」、それが黒川さんの唯一の願いなのだから。

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 神奈川県の某所にある最寄駅から徒歩20分。住宅街を歩いていると、突然茂みに覆われた築50年の建物が立ち現れる。木々の隙間からは、ガラス戸に貼られた人物画がこちらを見据えている。ここが「人巖画美術館(にんげんがびじゅつかん)」という独特の書体の看板を掲げる黒川巖さんの自宅兼アトリエだ。装飾されたフライパンが吊るされペイントされた樹木が生い茂る庭は、人の立ち入りを拒むかのようなビザールな雰囲気を醸し出している。

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 出迎えてくれた黒川さんの出で立ちにギョッとした。ライオンのような白髪のモジャモジャヘアーに、自分でペイントした衣装を身にまとい、足にはペディキュアまで塗られ、到底78歳には見えない。躊躇する僕に「この服は、移動美術館って言うんです」と笑って語る。100号級の大作が並ぶリビングで、黒川さんは自らの半生をゆっくりと話してくれた。

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 1937年、東京都杉並区に7人兄弟の次男として生まれて、小学校2年生のときに終戦を迎えたの。親父は戦時中、「中島飛行機」っていう飛行機会社で働いてて家族全員で秋田まで疎開してたこともあったんだ。戦後の東京はみんな貧乏でしょ。やがて親父も会社を辞めざるを得なくなって、電気器具の行商を秋田でやることになって、僕もそれに何度かついて行ってたよ。

 そんな黒川さんは、小さいころから戦争画から名画の模写までさまざまな絵を描いてきた。特に影響を受けたのは中学のときの担任の先生だったようだ。

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 担任の美術教師が「一水会」って美術協会の会員目指して教師やってた人なの。写生大会のときなんか、僕はすぐに川辺で絵を描いて、ひとりだけ川で泳いでたほどの劣等生だったんだけど、許してくれてたんだよね。僕が絵描きになったときに「黒川、お前のこと見抜けなくて申し訳ない」って謝られちゃったの(笑)。

 中学卒業後は、父親から「これからの世の中は電気だぞ」と言われ、工学院大学附属高等学校の夜間部へ進学。日中は、「プリンス自動車」(1966年に日産自動車と合併)に入社し工場でミシン製造の仕事に従事した。そのころから会社内で美術部に所属し、絵を描いていたそうだ。

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 このころ、脳溢血で半身不随になっちゃったのよ。医者からは「勉強のしすぎか、スポーツで打撃を受けたかじゃないとなるはずない」なんて驚かれたけどね。リハビリしたけど、いまでも足を引きずって歩いてるんですよ。「プリンス自動車」はね、16歳から29歳まで働きました。25歳で結婚して、この場所に来たんです。退職後は「もう勤めないでおこう」と思ってたんだけど、子供が3人いたし食ってかなきゃならないからね。

 31歳で、「内藤電誠」という会社でコンピューター関係の仕事に就職。そのころ、かなり精力的に絵を描いていたようで、黒川さんの表現衝動はだんだん抑えきれなくなっていた。そしてついに、「片道2時間も通勤しなきゃいけないサラリーマン人生をバカバカしく感じちゃってね」と39歳のとき「サラリーマン廃業宣言」、つまり仕事を辞め絵の世界で生きていくことを決意する。

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 翌年、「工業デザインイラスト学校」へ入学したのよ。学んでなくても今の到達点には来てたんだけどね、世の中に通用するような美術学校へ行ってみることにしたの。最初「デザイナーになろうかな」と思ってデザインを売ってみたんだけど、デザイン描いて持ってくと、「500円だ」とかね。電車賃でプラマイゼロ、帰りにどっかで飲んでたら赤字だよ。「くだらない」と思ってやめちゃったわけ。

 次に通ったのは、新橋にある「美術研究所」。自信を持って50号の大作を持って行ったら、「こりゃダメだ、狂ってる」と言われショックを受けたそう。「自分の立ち位置を確認したようなもんだね」と笑みをこぼす。

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 39歳で本格的に絵を志して、およそ40年。黒川さんのポリシーは、ずっと一貫している。売り絵は描かないし、商業的な公募展にも出さない。

 描こうと思えば、売れる絵は描けるけど、それは自分でやりたくなかったですね。売れば本来描きたい絵が描けなくなるでしょ。だから、絵を描くために土方をやってたんです。幸い失業保険と土方をあわせたら、サラリーマン時代と収入は変わらなかったですね。42歳のころから東京都美術館の無審査のアンデパンダン展に出してたくらいで、在野の商業的な展覧会にはひとつも出展してないよ。そういうものに反対して生きてきたからね。

 そして黒川さんは44歳のとき、もっと絵に集中するため、ついに土方も辞め自宅で美術教室を始める。服へのペイントは、この美術教室を始めたとき、教室に来る近所の子どもたちにシャツに書いてもらったことがきっかけだとか。

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 僕が服にペイントし始めたとき、まだ誰も服に絵を描いてる人なんていなかった。服って黄ばんだり破れたら、すぐに捨てちゃうでしょ。だからそれを再生させる目的もあったの。近所の子どもたちが面白がってくれて、多いときは100人くらい生徒がいたよ。ただ、教室に通ってくる下手な奥さんたちにも「上手いね」とか言わなきゃいけなくて、僕からするとそんなの屈辱的なんだよね。だから、ストレスがかなり溜まっちゃって68歳で辞めちゃったの。

 以後、一貫して画業に専念してきた黒川さんだが、これまでずっと発表の中心は46歳から自宅の庭を展示会場に見立てた「人巖画美術館」のみだ。

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 たまに覗きに来る人はいますね。「中も見たい」って言われるけど、「見せません」って断ってるの。もちろん誰かに見て欲しいって思いはあるよ。「タダで出展しませんか」って話もあったけど、それも断ってる。めんどくさいんだよね。「僕の絵は本物だ」って自分で思ってるんですよ。まぁ、死んだときに「こんないい絵があったんだ」って誰かが認めてくれればいいかな。「それくらいでいい」と思ってるの。

 そう語る黒川さんの本気の意気込みが伝わってくるのが、庭園美術館のタイトルにもなり、絵の中に必ず描かれる「人巖画」という雅号だ。

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 他人が描く絵は、世間に媚びてて本当の絵じゃない。僕以外は「人間」の絵じゃないんだよ。だから、「これが人の本当の絵だ」って意味なの。

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 毎月3枚以上描き、「小さなスケッチも入れると作品点数は3万点から5万点以上」と語る。確かにトイレの中から天井まで家中の至るところに、そして画材も貰った段ボールから拾ってきた石までさまざまな物に独特のタッチの絵が施されている。画中の言葉も「三途の川原で待ってるよ」など、どこか見るものをドキッとさせるような表現が多いのが特徴だ。

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 観客に「自分が間違ってました」って思わせる絵が本物だと思ってるんです。だから、僕の絵は「変なことをやったら罰せられるよ」「戦争やめてちょうだいね」とか「子どもを大事にしないとダメだよ」などのメッセージが伝わるような絵を描いてんの。「利己主義的なことをしてると裁かれるぞ」っていう、閻魔大王や亡者の衣服を剥ぎ取る「奪衣婆(だつえば)」のキャラクター性に共感して、よく絵の中に登場させてるんだ。

 そんな黒川さんの長い画業の中で、転機は2002年、突然訪れる。次男の娘、黒川さんにとっては孫娘にあたる小学校1年生だった「花ちゃん」が交通事故で他界。孫娘の命日は、黒川さんの誕生日でもある1月20日だった。

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 あれから、ずっと引きずってますね。かならず、小さい子を描くと似てきちゃって。絵が好きでとっても上手な子だったの。あれから僕の描く絵は変わったね。花ちゃんの命日1月20日と誕生日の7月22日は、必ず「こんなに大きくなったね」って、版画を作るんですよ。

 よく見ると、絵の中には子どもの絵も多く、「花ちゃん」という言葉もあちこちに見受けられる。そういう黒川さん自身も、最近は心臓を悪くし、電気ショックを受けて生死の境を彷徨ったこともあったそうだ。

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 もともと心臓が悪い家系みたいで。あるとき脈が140になってたんです。自分じゃ痛くもかゆくもないから毎日浴びるようにお酒飲んでて、医者の仲間に診てもらったら、このままだと心房細動心不全になるよと注意されたんです。

 以前よりも絵を描くペースは落ちているが、大好きな花ちゃんへの追悼はいまも続けている。

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 「自分は誰にも評価されたくない」とずっと社会的な評価を避け続けてきたから、黒川さんはいまも絵を描き続けることができているのだろう。奇しくも39歳という同年齢で、あえて社会と「断絶」することを選んだ偉大なる一歩に、僕は震えてしまった。そして、この取材を通して世の中に紹介することで、再び黒川さんを社会と「接続」しようとしている僕の行為は、もしかすると愚行なのだろうか。いまもその答えは出せないでいる。

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 帰り際に、「いまの人生に後悔してないのか」と尋ねたところ、「いまのところ、何も後悔はしてないよ。強いて言えば、もっとスタスタと歩きたいくらいかな」と笑って見送ってくれた。

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 本当に偉大な人は、こんな周縁に潜んでいるのかも知れない。


<初出> ROADSIDERS' weekly 2015年12月09日 Vol.191 櫛野展正連載



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