いち編集者から見た「天気の子」感想(※ネタバレ注意)

初日から見に行きました。とりあえず見て思ったことは、「この時代にここまで綺麗に定義にあてはまる「セカイ系」が見られるとは!」でした。

男の子と女の子が出会って、「世界の形を変えてしまう」 。
これは作中モノローグにすらなっています。今後この「天気の子」が「新しいセカイ系」のスタンダードになっていくのかもしれないと思うと胸が熱くなりました。
そして、これは新しいスタンダードになれるほどのエンタメ性を持った良作だったように思います 。
そう思うぐらい、僕は「天気の子」を好きだと感じました。

以下長いので、内容の章題を先に置いておきます 。
気になったところだけでも読んでいただければ幸いです。

■凪の重要性について 

「凪くんがかわいい」という感想については、「天気の子」にどういう感想を持ったとしても世界共通認識だと思っています。正直異論は認めたくないレベル。
最初に凪君が登場したときは、帆高と陽菜が仲良くなるのを邪魔するキャラかと思いました。そういう役割入れるのストレスかかるから要らないのに~とも思いました。全然真逆でした。
家で出会って、最初こそ「誰お前?」って反応ですが、次に登場するときはもう素直にてるてる坊主着ぐるみ着てるんですよ。なんだ素直か!? 一転めっちゃ可愛いキャラにしか見えません。

凪くんのこの素直で姉想いのキャラクター性は、転じて、陽菜という姉キャラクターの魅力が高まるのにも寄与しているのですが、凪くんの存在のそれ以上の重要性は、ラブホのシーンにあると思いました。

ラブホという場所の特異性により、もしあの場所に帆高と陽菜の二人だけだったら、あの「家族感」ある雰囲気は作れなかったと思うんです 。
あの場面に凪くんがいたおかげで、シーンが変なエロさに引っ張られることなく、危機から逃れた家族の幸せなシーンとしてほんわか見ることができました。 
作品の空気を和ませ、安心して観賞させてくれる重要なファクター。それが凪くんだと思いました。

そして最後に女装まで見せていく凪くん 。
なんだ? 全部盛りか??? 最高かよ。 
「サービスに容赦をしない」っていうのはエンタメ作品において大事だと思っています。ああいう遠慮のなさ、大事。見習いたいです。

■ラストの選択について

僕は、「天気の子」の選択が好きです。
少年と少女は、彼らの選択によって、「世界の形を変えてしまう」 。
だけど、彼らは彼らの選択によって、身の回りを変えられることは、ついに何一つありませんでした。
帆高は地元に帰り、陽菜と凪は児童相談所に行き、圭介は結局娘さんと一緒に暮らせていません。

この描き方には意味があるように強く感じました。

終盤、彼岸にいった陽菜を助けにいき、ついに手を取った帆高は「離さないで!」と叫びます。 
これに対し陽菜は「うん!」と答えます。 
このカタルシスを感じるシーンですら、その後二人の手は一度離れてしまうのです。 
ここでまで、二人の意志は思い通りになりません。 
(これは深読みしすぎなんじゃないかとも自覚していますが)

最後、圭介は「お前らが世界を変えたってか?」(うろ覚え)的なことを言って、うぬぼれんなと諭します。
お婆さんは「昔の形に戻っただけなんだ」と話します。

本当に彼らは何かを変えられたのでしょうか。

世界を変えるなんて大きなことをしたように見えて、もしかしたら何も変えられていないのかもしれないと強く感じるこの構成と帰結に、僕は大きな魅力を感じているし、何度も見て、この意味を考えていきたいと思いました。

あと単純に、何かを得るためには何かを犠牲にしなければならないって形になっているのが好きです。


■キャラクターの魅力づけについて

作品を好きになってもらうためには、キャラクターを好きになってもらわなければなりません。自分の担当作品でも、当然これは重要視しています。
宮崎駿さんの作品は、総じて(「風立ちぬ」においてさえ) 「主人公が誰かを助ける」ところから始まります。これは、宮崎駿監督が「人を助けられる人は好かれる」と思っているからだと、僕は勝手に解釈しています(違うと怒られるかもしれませんが)。

「天気の子」では、主人公の帆高は家出少年でありますが、一人で放浪している間、涙を見せません。
少年が家出をして、一人で東京で過ごして行こうとすることは、ひとつの見方からすれば現実が見えない馬鹿げた行為に見えてしまうことでしょう。
だけれど、それでも自分の家出を「間違っていた」と後悔するようなことはなく、泣き出して誰かに助けを求めるでもない帆高を、自分はとても好意的に見ました(ハンバーガーをもらって食べるところでは、一口噛んだところでカットを変えているのがうまいと思いました。もしかしたらあのあと泣きながら食べたかもしれない。だけれどそこは視聴者には見せていません)。 
こうした前向きな姿勢を持たせることも、視聴者にキャラクターを好きにさせる一つの方法のように感じました。 
(そしてその後彼はヒロインを助けるのですが)

対して陽菜は、やはり帆高を助けるところが物語における初登場シーンとなっています。
(そのあと、助けられて(帆高の暴走によるものだったが)文句を言って去ろうとしたところでは、一瞬むかつくキャラに見えないか不安になりましたが) 家に帆高が持ってきた申し訳的な差し入れを喜んでくれて、それを使って最高のご飯を作ってくれる辺りもめっちゃ好印象ポイントでしたね。

序盤に、いかにすんなり、好印象を与える要素を入れて、キャラクターを好きになってもらうかはめっちゃ大事だと思っているので、その辺りの手法はかなり注意して鑑賞したポイントです。


■作品の再読性について

Twitterでもそうですが、無料で読める漫画が流れてくることもある現代において(違法サイトを前提にした話ではありません)、あえて本を買ってもらうためには「再読性」が大事だと思っています。

映画でもリピートして観たくなることはとても大事なように思っています。アクションだとまたあのアクションが見たいとかあるし、キャラを好きになってもらえたら「またあのキャラに会いたい」と思うことも再読性のファクターだと思います

この「再読性」に「二度目見た時の気づき(感動体験)を足す」という方法があるとも思っています。

「あの日僕たちは世界の形を変えてしまったんだ」という冒頭モノローグがあります 。
これは引っ掛かりを覚えるモノローグです。 
最初あのシーン見ている時視聴者は、「陽菜が特殊な能力を持っていて世界を変えた」という認識を得ます。つまり、「僕たちは」は意図的に違和感を与えるために選ばれている言葉なのです 。
それが作品を最後まで見ると「僕たちは」の意味がわかります 。
あのモノローグに初見で引っ掛かりを覚えなかった人も 、二度目の鑑賞では「あ! 「僕たちは」って言ってる! そういう意味か!」って気づいたりします。
こういう、二度目見た時に一度目にはなかった感動体験が用意されていると、もっと何かあるかもしれないと思って、より作品を好きになると思うんですよね。

帆高と夏美が色んな都市伝説の取材をしていく序盤のシーン。
「これ絶対ちゃんとよく聞いてたら、実は物語の核心に迫る証言が取れてるやつでしょ」って思いました。 
二回目見てあそこもう一回聞いてみたい!!


■作品の文法について

「天気の子」は文法において「君の名は。」と同じものを使っているように感じました。
男の子と女の子が出会い、 
最初はその出会いの特殊性を楽しみ、
やがて大きな転換が生まれ、
主人公たる男の子が主人公としてのキャラクター性を獲得し、ヒロインを助けるために走る。

(「君の名は。」はさらにここから、「ヒロインが主人公の想いを受け継いで成し遂げる」ということまでやっているので、作品としての完成度の高さ、視聴した後の満足感の高さは「君の名は。」の方が勝るのではないかと思っています(それが「どちらが好きか」という話とイコールにならないことは当然として))

文法が同じであることはメリットとデメリットがそれぞれ存在していると思っています。
メリットの一つは、視聴者が先の展開を「期待しやすい」ことです。「君の名は。」文法が頭にある視聴者は、「天気の子」終盤、自然に、帆高が陽菜を助けるために走ってほしいと感じながら鑑賞することができたでしょう。そしてその通りになったときに、視聴者は満足感を得ることができます。
デメリットの一つは、どうしても比べてしまうこと。次の作品をどのように持ってくるかが今から一層楽しみだったりします。同じ文法でまた最高体験ができても、それはそれで嬉しいし、違う文法をまた構築してくれるかもと思うのも楽しみです。


■「天気」というモチーフの選び方

ヒロインの能力を「晴れ」にする(実は雷を降らせることもできるぐらいすごい力でしたが)という能力にしたことをすごいなと思いました。

まず、「晴れ」になったときの嬉しさは視聴者みんなが体験していやすいことです。
雨が好きな人ももちろんいるけれど、雨が続いた後の晴れの喜び、大事なデートやイベントの日に、晴れてほしいと願ったことは多くの人が持っている体験でしょう。 
だからこそ、「晴れ」にする能力が喜ばれることをみんなが理解しやすいし、 しかも絵的に映えるし気持ちいい。
「晴れ」にする能力を人のために使っていく陽菜に好意も持っていくことでしょう。

だからこそ、もはや晴れることはないとなる最後の選択に、重みを感じることもできます。
一方で、これが誰かの死に直結していないのもうまいと思うんですよね。

帆高は陽菜が戻ってきてくれることを選ぶし、陽菜も生きることを選びました。だけど、それによって誰かが直接的に死んでしまうことになると重すぎる。重すぎると、帆高や陽菜に対する視聴者の悪感情が高まってしまいます。 
かといって軽すぎても、帆高たちの選択が重要性を持たなくなってしまうでしょう。
これが「天気」に関わる選択であることで、重すぎず、軽くもない選択に落とし込めているのです。 
なんてうまいんでしょうね!!


■認識されている自分の性癖まで利用してくる新海監督

「新海監督は年上キャラが好きすぎる」 というのは新海作品ファンなら通説となっています。 
陽菜が18歳だと自称したときも、視聴者はそれを見て「また年上キャラかー」と思い、信じ、疑いもしなかったでしょう。 
それがひっくり返されたのだから、実はここに最大の衝撃を受けてしまいました。 
年下だった!?!?!?!?
思い返してみれば、ハンバーガーショップをクビになった理由を言い淀んでいたし、その答えが実は年齢詐称をしていたなんだろうし、伏線はしっかり貼られていました。
だけど、まったく疑いませんでした。新海監督だから年上なんだろうと。
利用された!!! 視聴者の自分に対する評価まで利用してきた!!
と思いました。悔しい。 
たとえば新海監督作品は、過去作品のキャラがカメオ出演することなども認識されていて、 それは今回の作品でもしっかり踏襲されています。 
この点を見ても、新海監督は自分の作品に対して視聴者が思っていることは認識していてその期待に応える作りをする人であることは間違いないと思っています。 
やられました。びっくりしました。こんなとこも好き。

長々となりましたが一先ず以上です。またなんか思い出したら書くかもしれません。
もし最後まで読んでいただけた方がいたなら 、とっても嬉しいです
ありがとうございました。

最後に、僕は「天気の子」が好きです。BDは買うだろうし、映画館にももう何度か行きたいです。
凪くんかわいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?