Hi-Hi-Whoopee休止騒動で思った事への永遠なる蛇足。第一歩。

前回の記事が多くの方に読まれ、沢山の反響があって嬉しいです。
反響の中には同意してくれる方やここが分かりにくい、私はこう思う、こんなめんどくさい文章書く人は後を絶たないね、10秒でしんどくなったから訳して、などなど多数のご叱責も含まれていました。
私自身も約6時間で書き、推敲は読み直しで誤字訂正のみでほとんど文章に手を入れていないため、多くの分かりにくい部分がありましたことをお詫び申し上げます。
私自身のためにも色々と補足事項を今回から上げて前回の記事の理解度がより深まるようになれば嬉しいと思っています。

数多くある自己反省する点として一番大きいのは大前提として挙げていた「幻想」を単純な、そして多くの人に忌み嫌われる安易な世代論に入れてしまったことです。そんな「大きな」括りに入れられてしまうことに嫌悪感を抱いてしまう人は多数いることだと思います。
しかし、DJをやっている自分自身の観測範囲内で言えば年上の音楽好きな方々と話す時と年下の音楽好きな方々と話す時に(それはクラブやバーの場合が圧倒的に多い)どちらの方が安心感があるかといえば前者の方であり、そもそも年下の音楽好きと話す、という機会があまりにも少ない、もしくは出会わない、というのが実感であります。
そして、僕のほとんど行かないボーカロイド・東方アレンジといったクラブイベントのDJプロフィール欄を見てみると僕より年下のDJがほとんどと言ってもいいのです。そして、そのようなDJと知り合う機会も無い。僕は出来る限り色々なイベントに行っているつもりなのですがなかなか知り合うことがないのです。(例外としてはsprout's dub 94の一部メンバーやSEKITOVAと知り合えました)このような経験から、やはり僕の年代やtofubeatsと同世代やそれより下の年代には音楽と向き合う際に考える「前提」のようなものが共有出来ていないのではないか、と考えるようになりました。それが無いから悪いという話ではもちろんなく、そこから生まれる新しく素晴らしいモノがあるのだろうと思うと逆にワクワクする気持ちもあるのです。そして、その新しく素晴らしいモノは僕には理解し難いモノであるのだろうな、となんとなく思います。
僕や上の世代が持っているある「前提」が新しいモノを理解出来ない足枷として機能するならばそれはマイナスな意味合いをもつ「幻想」と名付けるのが適当かな、と思ったのが「幻想」という言葉を持ち出した要因でもあるのです。
この「幻想」という部分は今後色々と見識を深め、解き明かしていければいいな、と思っています。(先日、年下の音楽好きな青年と長時間話す機会を頂き、多くのヒントを得られたので今後に活かしてきたいと思います)

また、前回の記事において

>「バンドが来なければ自分が呼べばいい」「クラブイベントを自分で立ち上げればいい」そんな声がTwitter上等で散見されたが、それは「強者」の意見である。<


と書きましたが、これに対しても大手のイベントを開催している(していた)方々から「私達も赤字を背負い込んでイベントをやっている。あなたは私を強者と呼ぶがそんなに恵まれているわけではないのだよ?」という批判をいただきました。
僕がハイハイ君を「弱者」とし、それに対して「強者」としてしまったために「強者=悪者」というイメージに結びつけてしまうような書き方をしてしまったことは私の力の無さです。申し訳ありません。大手のイベントをやっている方々の赤字具合(何十万もの赤字を抱え込んでいる等)の話は私も聞いたことがありますので、そこまでしても人々の集いの場を作り上げるイベンターの方々は尊敬していますし、私もいつかそのようなイベントや出会いの場を作り上げたいと思っています。(この批判を頂いたイベンター達の中に、私が何度も足を運ばせていただき、楽しませていただき、自分が企画を打つ際にはそのイベントのメンツを思い出させるようなイベントを企画していたイベンターの方もいました。その方には私の文章に付き合っていただいた事にも感謝しながら、いつかあなたの企画したいたようなイベントを私はやりたいと思って頑張っています、とお伝えしたいです。そう言うとその人は「今すぐやれ!」と怒るのかもしれませんが)


----------------------------------------------------------------------------------------------------------


僕の記事への反応なのか、ハイハイ君への反応なのか分からないが次のような意見が見受けられた。

「この騒動はHi-Hi-Whoopeeという組織がちゃんと統制が取れてなかったから起こった事じゃないか。それをインターネットと現実、地方と東京の問題にすり替えるな」

この意見はもちろん一理ある。ハイハイ君が萩原梓に対して己のアイデンティティ(HHWの成り立ち)やオリジナリティーな思考(ゲーム的要素音楽の未来)を漏らさずに自分の内部に留めておけば流出することもなかっただろうし、漏らしたとしても彼が発案者であることを明記すれば済む話なのである。確かにそこにハイハイ君の落ち度があるだろう。
しかし、ここでやはり気になってしまうのはハイハイ君がHi-Hi-Whoopeeを解体させてしまうほどに己のアイデンティティやオリジナリティーに極度に敏感になる態度である。萩原梓にしてみればHHWの成り立ちやゲーム的要素音楽の未来について語ったのはハイハイ君から伝え聞いた事を、ただただ伝言を受け取った者としてライターに伝えていっただけである。
そこに萩原梓の主体はない。彼はこのインタビューでは自覚・無自覚どちらにせよ「萩原梓」というより「Hi-Hi-Whoopeeの一員」としてインタビューを受けている印象があり、またMikiki側も彼個人よりもHi-Hi-Whoopeeのインターネット音楽シーンへの浸透力・影響力の強さを基として彼らの見ているシーンに触れる、という構成を組み上げているように見える。
前回も言ったようにそこに僕は悪意を読み取ることが出来ない。萩原氏は自己の利益を優先させインタビューを受けているように見えないし、もしかすると、ハイハイ君が拘っていた「HHWをはじめたこと/理念」や「ゲーム的要素音楽」についても「Hi-Hi-Whoopeeメンバー内で話題になったことがあったかもなぁ。これは面白い事だから言っておこう」ぐらいの気持ちで話しているのではないだろうか。
彼はその時、Hi-Hi-WhoopeeのメンバーとしてHi-Hi-Whoopeeの考えるインターネット音楽の未来についてハイハイ君の代弁者になっているのであり、これに対してハイハイ君はほくそ笑むことも出来たであろう。
何もない田舎である自分が考えた思考が東京の人間達に浸透していくのである。僕にしてみればこれほど喝采を上げたいこともない。これこそハイハイ君の言葉を借りれば「都会に勝った」と感じられることであるのではないか。最先端の文化に触れ続ける東京の人々に、田舎に孤独に住む自分の思考が広まっていくのである。そんな愉快なこともない。
しかし、ハイハイ君は「自分が求められていない」と感じ、「美味しいところを都会の人間に持っていかれた」と吐き出し、Hi-Hi-Whoopee脱退記事に吐露したように「メディアの規模の拡大に比例しない現実世界」に苦しむことになり、「文化の発信者のひとりとして認められる日」を待ち望んだ。彼の「思想」に染まったメンバーが彼の考えを東京に浸透させようとしていたというのに、だ。

萩原梓のこの主体の無さ・軽さとハイハイ君の異常なまでの生身に拘る(彼は『心の底から自分の口で』自分の考えを伝えたかった)姿勢。

その温度差の違いの間に「インターネット/現実」「田舎/都会」の埋められない距離がごろんと転がっているように僕にはみえて仕方が無い。そして、僕はハイハイ君がそのような距離感に敏感な人間だとは思っていなかった。だからこそ僕は彼が充実しているように見えていた。

冒頭の批判を読んで思い出した文章がある。

>僕は大塚英志と違って、おたくを象徴するといわれる宮﨑勤事件はもちろん、連合赤軍事件だってたんにくだらないと思う。落ちこぼれの馬鹿が誇大妄想にかられて暴走したら、ろくなことにならないというだけのことでしょう。あんなものがその世代を代表しているとか、その世代の人間はそれを自分の問題として引き受けなければならないとか、そんなの冗談じゃないと思う。オウム真理教事件だって、まさにそれと同じ程度にくだらないと思うので、それは社会問題ではあるかもしれないけれど、宗教や思想の問題ではない。<
(浅田彰・中沢新一「オウムとはなんだったのか」『諸君!』1995年8月号/大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍 -サブカルチャーと戦後民主主義- 旧版あとがき』より孫引き)

なるほど、今回のHi-Hi-Whoopeeの騒動も大体で言ってしまえば都会への「誇大妄想にかられ」た「馬鹿」が「ろくなこと」をしなかったという風に言ってしまえるのかもしれない。それを「自分の問題として引き受けなければならないとか」「冗談じゃない」かもしれない。

大塚は浅田の批判に対し、同じく後書きでこう答えている。

>浅田はぼくを、オウムやM青年(宮﨑勤)の問題を「世代の問題として引き受け」ようとしていると批判するがそれは買いかぶりもいいところで、ぼくは彼らのわかり易すぎる矮小さの前でただ立ち尽くしているに過ぎない<
(括弧注筆者)

その「わかり易すぎる矮小さ」とはなんであろうか。続けて引用する。

>ぼくは彼らの思考を構成する一つひとつのことばや彼らの一つひとつのふるまいの出自を手にとるように記述出来る。それはサブカルチャー的な断片の集積に他ならず、稀に思想や宗教の語が紛れ込んでいたとしても、それらは八○年代の<知の商品化>の残滓以外の何ものでもない。<

そして、大塚は「矮小さ」が分かる人々と分からない人々の間でオウム事件の受け止め方の違いをこう語る。

>後者の人々はオウムが理解不可能な事象であるが故にとてつもなく大きく見え、オウムの「わかり易さ」に愕然とした人々は彼らの<矮小さ>に困惑する。「国家」や「闇」を引き合いに出さざるをえないほどの大きさとサブカルチャー的な<矮小さ>の両極端にオウムをめぐる言説は分断されている。<

多く引用したが、僕が今回の騒動に対して受けた感情はこの大塚の答えに当てはめられると思う。
僕はハイハイ君が「理解不可能な事象であるが故にとてつもなく大きく見え」、「現実」や「都会」への距離感を破壊するどころかそれに対するコンプレックスが初めから存在しないかのような新しい存在に見えていた。
しかし、彼がHi-Hi-Whoopeeを脱退する際に発した言葉は「わかり易すぎる矮小さ」であり「出自を手にとるように記述出来る」ような気がした。そして「ぼくは彼のわかり易すぎる矮小さの前でただ立ち尽くしているに過ぎない」のである。

僕がハイハイ君に感じた「わかり易すぎる矮小さ」とは都会に対しての羨ましさであり、都会の力に対する簡単な屈服であり、その都会から生み出される「美味しいところ」を自分のもとに引き寄せたいという単純な欲望であり、それらが叶えられないことから生まれる強烈な自己承認欲求である。僕個人の話でいえばこういう感情は中学生や高校生の時に強烈に思っていた事だし、今でもこのような感情が0になったとは言い切れない。そして、ハイハイ君が自嘲するようにこれは「醜い感情」である。願わくば、僕はハイハイ君にこのような感情を持って欲しくなかった。僕や僕に似たような人間だったりが引き受ければ済む話である。その意味で僕は彼に失望した。まだそのような感情に捕らわれている彼の浅さに。

しかし、失望すると同時に彼が自分のメディアを休止してまで表出させた感情に親近感すら抱いてしまった。自分にもこのような感情は少なからずあるし、その感情を否定することも出来ない。それを共有しているというだけでも僕は彼を擁護しなければならないのだと思う。
大塚の言葉を再び借りる。

>その浅さが<矮小さ>が手にとるようにわかってしまうから、そこから目をそらすことができず、それらの<矮小さ>を正確に記述することばを模索せずにはおれないのだ。<

僕が長々と彼に対する言葉をこうして書き続けているのも、僕はなぜ彼を過大評価していたのか、そして、僕や彼が抱える<矮小さ>が何なのか、それを今回の騒動において明らかにしたいと思ったからである。そして、これを言語化することによってこのような「醜い感情」から解き放たれる人間が多く出てくれることを願うばかりである。

ハイハイ君はHi-Hi-Whoopee脱退後、以前より盛んに自分のTwitterアカウントブログにおいて新たなインターネット音楽の情報をアップし続けている。
それに対して「本当に22歳なのか?」という疑問まで生まれている。
もし、彼が22歳でもなく、田舎に住んでもいないのだとしたら僕の書いてきた言葉は全て無に化す…それならばそれでHi-Hi-Whoopeeらしくていいじゃないか、とも思う。

(引用全て・大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍 -サブカルチャーと戦後民主主義- 旧版あとがき』より引用)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?