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高価な死を望む

本題はネガティブな話ですが、まず一つ、自慢させてください。

映画「JOKER」が、オーケストラ生演奏と共に上映される公演が今度あるのですが、S席のチケットを取っちゃいました。

対象の体験を、より至高に近い体験に変える選択を金銭で行えるのなら、やはり私は貯金していてよかったと思うわけです。


中学の頃から物欲があまりなく、実家の飲食店の手伝いをするたびに口座に振り込む。そんな行為を重ね、今になってようやく母の「1持つものは1を精一杯に消費し、9持つものは10にしようとする」の意味がわかった気がします。(どちらがいいという話ではないよ)

これは、ただ10を貯めて人生を終えるということではなく

本当の「欲望」を知った時や、上記のように体験価値を金銭で選択できるタイミングに出会った時などに、迷いや不安などなく「欲望」の上を生きれる、という点で貯金の意義を教えてくれる言葉だと思います。


それに、コツコツ、という感覚を重ねると不思議と1の大切さが身に沁みているもんです。タワマンに住んでビル群を見下ろすなんて大層なことはする気にならず、500円の文庫本を好きな時に好きなだけ買っちゃう。コンサートをS席で見ちゃう。そんなことにジンと幸せを感じる毎日になるのです。

幼い頃からこういうことを暗に示してくれた母のおかげで、「とりあえず沢山貯金しておけばいい」という思考止まりにならずに済んだのです。


金というのは所有物という儚い立場であるため、持ち主が死んでしまえば(もう持ち主の手元には居られないという意味で)無に帰すわけです。


言葉を選ばず言うなら、人間、割と簡単に死んでしまいます。そして厄介なことに死期というのはほとんどの場合選べず、突然姿を現します。

「第二の人生」という言葉があるようになぜか人は定年退職後の人生を思い描きますが、なぜ人は第二の人生を迎えられると信じて疑わないのでしょうか。


きっと「死」というものを、普通に生きれているうちに特別なものだと思い込んだのです。この現代の日本、医療が発達し、食料も十分にあり、誰もが必ず迎えるはずの「死」を日常の思考から無意識に隔離し始めました。

戦時中の誰が、第二の人生、どこでゴルフをするかを思い描いたでしょうか。


21年間生きてきて、私は「死」をうまく隔離できませんでした。大人になるにつれ「目を背ける」という都合のいい能力が身につくはずが、「今日このまま寝て明日死んじゃったらどうしよう」とかを暗闇の中のベットで思いがちな幼少期から、成長できなかったのです。

なんとなく、私は老いて死んでいく自分を想像できません。いつかパッと、消えてしまうんじゃないか。


SNSでは見えない話を聞く上で「若いのに〜、自分が21の頃は〜」とか「生き急いでるよ」とか言ってくださる人たちは、自分が老いて第二の人生を歩めることを信じて疑わないのでしょう。

私は、死ぬのがすごく怖い。それは「いつかパッと消えてしまうこと」が虚構とは言い切れないから。



冒頭に出てきた「JOKER」の映画、幾度も観ています。そこに出てくるジョークに、「この人生以上に硬貨(高価)な死を望む」「I hope my death makes more cents (sense) than my life.」というものがあります。

 

なんと秀逸な日本語訳!そう感動していただけのはずが、このジョーク1つが、私の死生観を表すためのものな気がしてならず、わざわざS席なんて高価な場所を選ぶことになりました。


このダブルミーニングを簡単に説明すると、

centsの場合、舞台であるゴッサムシティという貧富の格差が激しい資本主義の中、死んでまでお金を手にしたい、ということ。金に貪欲な市民への皮肉と取れます。

senseの場合、ジョーカーの死生観を表します。ジョーカーは、人生の一点一点は悲劇であり、死して初めて喜劇として完結するものでありたい...といった死生観です。

このジョーク1つを思い出しただけで深夜の数時間、狂ったようにPCを動かすほどです。「死して初めて意味を成す」という部分が私の死生観と類似しているので。

(ちょっと何言ってるかわけわからないかもですが少し我慢してくださいね)


そもそも私が死に対して異常な恐怖を持っているのは「未練を残して人生を終えること」「誰かを残し逝き、残した者を悲しませてしまうこと」の2点が理由。

そしてこの2点は実は濃いイコールで結ばれていて、前者の解決が後者の解決になる、と私は考えています。

金銭以外で貪欲な私は、叶えたいことや知りたいことがあまりに多すぎるゆえ、これら全てのリストにチェックを入れるために、自分の人生を生きねばならないのです。

自分を癒すプロダクトが、巡り巡って同じ渇きを持つ人を潤す、と尊敬する経営者は言っていました。必ずしも「誰かのために」何かを生み出さなくてもいいわけです。

そうして自分のための人生を過ごし、「もう自分の人生は満足だよ。全てのリストにチェックを入れられたよ」と笑って逝くときに、「未練を残して人生を終えること」の恐怖から脱せられるのです。


ある日「大人というのは、他人に何かを与えれることだ」という言葉を見ました。その理論で言うとすれば、私は大人になんか一生ならなくていい。自分の人生を生きるので精一杯なのだから。


私が笑って満足して逝けば、死に対しての恐怖の2点目である「この世に残す者を苦しくさせること」の解放は多少なりともあるでしょう。これが私が死して与えられることです。死して初めて「大人になる」という意味を成すのです。

これが、ジョーカーと通ずる”高価な死”です。


(ちょっと何言ってるかわけわからないかもですが少し我慢してくださいねpart2)



濃いイコールで結ばれたこの2つの恐怖から逃れるために、私は焦っています。いつ死を迎えるかわからないから、早め早めに全てを終えたいのです。


なまじ「SNS」という広範囲に攻撃力の高い武器を手に入れてしまったがゆえに、これを上手く駆使すれば各々の分野のリストに少しでも早くチェックが入れられるという希望からこの媒体から離れられずにいます。

「なんでSNSやってるんですか?」という質問に「笑顔で死にたいからです」と言うと引かれるので言いませんが、こんな小さな画面に固執して短期的な利益を求めているように思われるのが嫌でnoteを書いている節もあります。


例えば。オーベルジュを経営したい場合、顧客層を得るためにSNSでバズればいい!といって綺麗なホテルの拾い画4枚と典型的なバズ文章を投稿するようなことは、短期的に見れば利益ですが、「高価な死」を迎えたい私にとっては、全く意味をなさない足枷になるのです。


そんなもので得た何らかの数字より、たった何ミクロンのそのホテルのホコリを吸い込むことこそが意味があることを知っているからです。大人になってしまうとこういうことを忘れてしまう。私はやはり死ぬまで子供でありたいと思いました。



このように「高価な死」から逆算して人生を設計していくと、自分が今どうすればいいかが細かく見えてくるのでおすすめです。

こういうのを私は哲学と定義しているのですが、哲学というのは「する意味がわからない」と言われがちで悲しくなります。



突っ走り過ぎました。

何が言いたいんだ、結局。と思われそうですね。もしくは「この人、生きづらそう。」そう思われたでしょうか。

こういった類の話をすると(自分からすることはまずないですが)、基本的にいつも言われるのが「なんか、生きにくそうだね笑」です。


それを言われるたびに私は「気を使ってくれてありがとう」という気持ちと、少々の寂しさがどこかに生まれています。

その言葉には必ず「自分にとっての生きやすさの指標」が含まれているわけです。人は時間が有限であることを知るからこそ、命を燃やし、濃密な時間にする努力をするということは至極真っ当だと考えています。

それが己の哲学であり、他人の指標で計られるものではありません。


私はただ、死ぬのがひたすら怖いだけなのです。「生きにくそうだね」と笑った人たちさえも幼少期にはまっすぐ見つめていた「死」を、未だに見つめてしまっているのです。

これは、辛いことでしょうか?



チャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」と言いました。


私はそうでありたいのです。

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