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最大多数の最大幸福

こんにちは、先日の東大戦で硬式テニス部を引退した松下です。引退したのにnoteを書けと言われてキレそうです。死人の言葉に価値があると思っている時点でこれからのテニス部が心配でなりません。嘘です。引退したのでこれからテニス部が栄えようと滅びようと全く興味はありません。興味が無いからこそ書ける事を今回は綴っていこうと思います。
皆さんは「最大多数の最大幸福」という言葉をご存じでしょうか。最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善とみなす、という立場を表すベンサムの言葉だそうです。僕は高校にまともに通っていないので言葉しか知らなかったのですが、全日制高校を卒業した人にはお馴染みの言葉だと思います。なぜ突然この言葉を出したのかというと、僕の引退試合(東大戦のイレギュラー戦)でこの言葉に関して少し気づきがあったからです。引退試合は楽しかったですね。緊張でガチガチになってしまい試合内容はグダグダでしたが、部員全員に連呼まで使って応援してもらって雰囲気としては非常に盛り上がりました。そこで僕は一つの考えを改めました。僕は今までレギュラーがよく口にする「応援が力になった」という言葉は真っ赤な嘘だと信じて疑わず、試合を戦うだけでなくそんな嘘までつかなきゃいけないなんてレギュラーも楽じゃないな、と同情すらしていました。しかし今回全員に応援されてみて「応援が力になる」という感覚が少し分かった気がします。勿論イレギュラー戦という半分おふざけの場と対抗戦を同列に語る事は出来ませんが、それでも応援の力の存在を確信する事くらいは許されるでしょう。しかし、です。この「大多数の人間が応援に徹してその応援を受けてレギュラーが戦う」という構造は最大多数の最大幸福の実現と言えるでしょうか?多分違いますよね。この場合の最大多数は応援してるイレギュラーだし応援する事が最大幸福なはずがありません。少なくとも僕にとって応援は最小幸福の一つでした。応援を熱心にしている人にとっても最大幸福ではないでしょう。一応構造としてはレギュラーはお返しに勝利をもたらす、という事になっているのでしょうがそれすらも最大幸福ではあり得ないように思います。少なくとも僕にとってはだから何だという感覚でした。この辺りは個人差がありそうですが。いずれにせよ僕たちが当たり前に思っているこの構造は最大多数の最大幸福の実現ではないという事です。もちろん最大多数の最大幸福がこの世の全てじゃないし部活というのはそういうものだと言ってしまえばそれまでです。しかし京大生としてそれで良いのでしょうか?今ある構造を当たり前のものだと思って受け入れる事は馬鹿でも出来ます。皆さんには京大生として是非一度この構造が本当に正しいのか、あるべき姿とは何なのか、そういう事に考えを巡らせてほしいと思います。
以上、死人の戯言でした。無責任に言いたい放題言えるなんてOBという立場は最高ですね。あれだけOBを嫌っていた僕ですが彼らの気持ちが少し分かってしまった気がします。冗談です。僕はちゃんと金は出すが口は出さない死人然としたOBになるので安心して下さい。ではでは。

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