私が映画「パンク侍、斬られて候」を傑作であると断ずるに至った「文脈」について

今日、つい3時間ほど前に映画「パンク侍、斬られて候」を観終えた。事前の予想通り、また原作小説を読んでいた私には原作に忠実であるゆえに狂騒的な、馬鹿馬鹿しい映画だと思って、所々笑い声を漏らしながら鑑賞した。しかし同時に涙を流してもいた。そのことが恥ずかしくて一番最後に上映室を出た。狂騒的な、破壊的な映像や音に扇動されて気持ちが昂ったというだけではなかった。もっと切実な悲しみや憤りを感じて、「この映画は傑作だ。俺は原作小説を全然理解していなかった」と胸の内で繰り返し呟いていた。

まず、私は原作小説を読んでいるし、原作者である町田康のファンでもある。しかも監督は町田康が町田町蔵の名でまだ音楽活動のみをしていた頃に出演していた「爆裂都市」の監督である石井岳龍(当時は石井聰亙を名乗っていた)だ。おまけに脚本は宮藤官九郎が手掛けている。80年代のパンクシーンに興味がある人間なら興奮しないはずがない組み合わせだった。映画化が発表された時点で、最大限の期待(と不安)を持って公開を待ちわびていた。これがまず大前提の「文脈」だ。

しかし原作小説については、私は町田康の中では少し苦手なというか、読んでいて疲れるタイプの小説だと思い精読する余力がなかった。芥川賞を獲った「きれぎれ」が典型的だが、町田康の中・長編には主人公の幻想・妄想なのか現実なのかわからない、または完全なる超現実が現実と全くフラットに扱われるものがあり、主人公の目の前で繰り広げられるめちゃくちゃな光景を延々と描写したと思ったらまたいつの間にか現実に戻っていたりするため、読んでいて非常に混乱するし疲れる。「パンク侍、斬られて候」もそうした小説だったために、文字を追うことに精一杯で、あまり具体的な感想は持っていなかった。これも「文脈」のひとつ。

そして映画の内容だ。私はできるだけ多くの人にこの映画を見てもらいたいと願う者なのでできるだけネタバレにならないように書かなければならないが、まず小説では読んでいて冗長だと感じたり混乱をきたしたような内容が、約130分という枠の中ででき得る限り整理されていた。そのことで、この原作が持っていた人間や社会に対するパンク的な、つまりそれはジョニー・ロットン的な(後述)視点がより明確になっていた。人間社会、しかもそれは映像や物語の荒唐無稽さに関わらずかなり現代的・現実的な人間社会を徹底的に挑発し愚弄しながら、最後はピストルズのラストライブのMCさながら、「騙された気分はどうだい?」と言わんばかりに幕を閉じるのだ。そうした「文脈」で流れるエンディングテーマは、やはりこの曲でしかあり得ないし、リアルタイムでパンクの発生を体験していない私は初めてこの曲を聴いて高揚した。興奮と言っていい。しかも蛇足のようにもう1曲流れるエンディングテーマが、セックス・ピストルズを再結成したジョニー・ロットンが発表したコメント「目的は金だ」を体現しているようではないか。これはもちろん私個人の穿った見解だが。

そしてパンク的なという時にそれがジョニー・ロットン的なという意味であるということが、原作者の町田康のパンク観でもあるという「文脈」がある。初期のエッセイをまとめた単行本「へらへらぼっちゃん」の「セックス・ピストルズ再結成反物語」という文章の中で町田康はパンク、つまりセックス・ピストルズとの出会いとその後の活動も含めていかにジョニー・ロットンが反物語的で反抗的で挑発的な人物かを活き活きと語っている。中でも次に引用する文章は彼がセックス・ピストルズを再結成させたジョニー・ロットンがその後どうするだろうかということを想像したものだが、それがまるでこのしつっこくて、馬鹿馬鹿しくて、嫌味ったらしい「パンク侍、斬られて候」という物語を紹介しているようでもある。

彼は今回のこの騒ぎで、元手なしの濡れ手に粟の大儲けをして全ての伝説と物語を破壊して、風の中に哄笑を残して、消えてしまう。って、わたくしは、そうはいかんとおもいますよ。あのライドン氏のことですからね、きっと、こっちが嫌になるぐらいしつこく、何度も自殺未遂を繰り返して、徹底的に嫌味な感じ、真面目な人をさんざん挑発して、ついには怒った相手に滅茶苦茶に殴らせておいて、ぼこぼこの顔で鼻血を垂らしてにやりと笑って、「おまえ、ひと殴っておもろい?」って、やるんじゃねえだろうか。

また町田康が「町田町蔵」の名でボーカルをつとめ19歳という若さでメジャー・デビューしたパンク・バンド「INU」のライブ盤「牛若丸なめとったらどついたるぞ!」の「ガセネタ」という曲の中で「パンク? パンクやと? しょうもないんじゃあんなもん! 何がおもろい? まともなんジョニー・ロットンだけやないか!」と叫んでいる。彼がいかにパンクというものをジョニー・ロットンという人物を象徴として捉えていたかがよくわかる。

これまでに書いてきた「文脈」で、私はこの映画を十二分に期待して観たし、実際の映像も十分楽しむことができた。もちろん、小説の映画化にあたって、文章であればくすっと笑えるような冗長な会話や表現がわざとらしく見えたり、「この台詞はもっと吐き捨てるようにそっけなく言って欲しかったな」というような、役者の表現への不満はある。しかしそれは、原作がある映画であれば当然抱き得るもので、それが作品の質を著しく損なうものだとは思わなかった。何より私がこの映画を「傑作だ」と断じるのは、私が涙を流すほど心を揺さぶられた場面があったからだ。そしてその場面は小説で読んでいた際にはそこまで引っかからなかった。映画化され、今の自分が観ることで初めてここまで心を動かされた場面だ。

この映画で描かれる人間は、大ざっぱに分けてしまえば常識的で無責任で姑息な支配層と、刹那的で無個性で鬱屈している被支配層だ。被支配層は「馬鹿」と表現され、支配層に徹底的に見下されている。そして、被支配層の抱える鬱屈はひとつのきっかけを得てとんでもない勢いで暴走していく。この被支配層は群衆という形でも、何人かの具体的な人物としても描かれていて、その具体的な人物は支配層のみならず周囲の人間からもことごとく見下され、馬鹿にされ、本人なりに努力はしているにもかかわらず上手く社会に適応して生きていくことができないでいる。そうした人間がちょっとしたきっかけを得ることで、鬱屈していた破壊衝動を爆発させてしまう。これは、無差別大量殺人などの多くの人たちにおよそ理解することができない凶悪な犯罪が発生する経緯に非常に似通っている--私がそう感じたのはつい最近に長谷川博一「殺人者はいかに誕生したか」という本を読んでいたからだ。臨床心理士の著者が凶悪犯罪の被告と接見したり文通してく中で、彼らがどうして犯罪を犯すに至ったかを分析したもので、これを読んだ私の感想というのがまさしく「たとえ唐突な理解しがたい犯罪(行動)であっても、本人の中にはちゃんとそこに至る文脈があるものだ」というものだった。彼らは一様に悲しい過去を持っていた。社会や他人に上手く関わることができないことを悩んでいた。もちろんそのことが犯した過ちを正当化する理由にはならないが、こういう抑圧された、疎外された人間をこの映画では丁寧に描いていると感じた。(町田康のこの優しく誠実な視点はのちに河内音頭「河内十人切り」に材を取り、人間が殺人を犯すまでの心の経緯を丁寧に描いた傑作「告白」に結晶する)私が涙を流したのは、破壊衝動を爆発させ、社会に復讐を果たしたある人物が死ぬ間際に、それでも自分が幸福だった時間は馬鹿にされながらも社会と繋がっていた頃だったと述懐したことだ。悲し過ぎるではないか。

その他にも人間の言葉を話すことができ、日本中の猿を集めることができる優秀な猿に対し、その能力を利用しながら、城に召し抱えて欲しいという願いに対しては猿であるという理由だけで応えようとしないなど、現代の社会の不寛容さへの皮肉がこれでもかと描かれている。原作小説は2004年に書かれており、今ほど人間の多様性とそれに対する社会の不寛容さが問題視されていなかった頃のものだ。それを今映画化することには大きな意味や価値があったと思う。この物語や描写を特定の団体や現行政府に結び付けて安易に留飲を下げるべきではない。全ての人間がこのように愚かなのだ。そうして愚かであることそれ自体が人間を救うことはない。自分の偽らぬ感覚によって歩を進める以外にはどうしようもないものだ。……いつの間にか坂口安吾のような口ぶりになったが、これは映画の中で坂口安吾「堕落論」の有名な一節、「生きよ堕ちよ」という言葉が出てくる場面があるという「文脈」があってのことだ。

とにかく多くの人にこの映画を見て欲しい。万人が楽しめる映画では無いかもしれないが、届くべき人に届いて欲しいと思うからだ。

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くわのどん

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コメント2件

すごい、こんな熱く語れる作品に出会えるって無いですよね。私が 告白 読んだ後も、相当 色んな人にこの作品の素晴らしさを伝えたい、て興奮したけど、その熱量の何倍もの圧を感じる 文 でした。めっちゃ伝わりました。
ありがとうございます! ただこれが今の自分が観たことによって得た感動なので他の人と共有できるものかどうかはわかりませんwあくまで極私的なレビューだと思います。
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