田中耀

小説を書きます。 Twitter → https://twitter.com/kuyo…

田中耀

小説を書きます。 Twitter → https://twitter.com/kuyou_again

最近の記事

グリーン・アルバム

 以前に住んでいた部屋のことを、最近になって、ふと思い出す時がある。記憶の中のその部屋は妙にがらんとしていて、物音ひとつせず、人や生活の気配は全くない。たった一ヶ月程度の短期的な滞在だったが、私が退去した後、新しい入居者は現れたのだろうか。今も入居者が見つからず、管理会社は手を焼いているかもしれない。あるいは、すでに取り壊されて更地になっているかもしれないが、どうも確かめる気は起きない。  その部屋に住むことになったきっかけは、管理会社を経営していた叔父の提案だった。進学に

    • 生きたまま解体されていくものたち

       コンビニや飲食店の店員にはきはきとお礼を言うのが本当に楽しい。相手の顔を見て、微笑みを浮かべ、明るく模範的な好青年のように振る舞えば、彼らは私をそのような人物だと勘違いするだろう。それが愉快でならない。私は道徳的な人間ではないということだ。  インターネットはどんどん悪くなっているし、これから先もより悪化していくだろう。本のタイトルを検索すると同じものを何冊も買わせようとしてくる。書評やブログ記事を見つけるだけでも一苦労だ。ネット上の自由な空間は次第に制限され、それらは特

      • 日記(2023-03-28)

         歌舞伎町のドトールは人でいっぱいだった。空席があるのか分からなかったが、それについては深く考えず、レジの列に並んで、ブレンドコーヒーとチーズトーストを注文した。コーヒーはその場ですぐに提供される。それから、番号札をもらい、受け取り用のカウンターの前に移動する。わたしはそこでしばらく待った。来るべきチーズトーストを。ずいぶん時間がかかっていた。このままチーズトーストが来なかったらどうしよう。ここにずっと立ち尽くして、今日こそは、明日こそはとチーズトーストを待ち続けて、ある日、

        • 車が売れた理由は徒歩よりも速いから

          趣旨: この記事では、これまでに私が行った東京のカフェやレストランの中で、美味しかった店、再訪したいと思っている店をリストアップする。 目的: その日行く店に迷ったり、店名を忘れてしまったりした時に見返すためだ。 注意事項: つまりこれはあくまで私的なメモである。穏当なことしか書かない。さらにいえば、私は無知なミーハーで、基本的に「ランチ おすすめ」の上位に出てくるような店にばかり行くので、もっと専門的な情報を求めている方、そしてネタバレ厳禁の方は注意されたし(途中

        グリーン・アルバム

          日記(2022-11-26)

           可笑しいと思ふそれから初笑  岡田一実  この句を初めて見た時、違和感というか、どことなく不気味なものを感じたんですよね。俳句や短歌には、自明のことをあえて言葉にすることでその不思議さを再発見するという書き方がありますが、この句はそういうのとは違う。異質な感じがする。それで考えてみたんです。まず、「思わず笑ってしまう」という表現がありますが、そもそも、笑いというのは原則として予期せずにやってくるものじゃないかと。例えば、公衆トイレの個室からバクチ・ダンサーが流れてきたら、

          日記(2022-11-26)

          数秒前の星

           秋の雨は、まぶしい。  空のずっと上の方に巨大なひかりの塊があって、それを誰かがナイフでずたずたに切り刻み、地上に撒き散らしてしまったみたいに見える。店員がコーヒーを運んでくる。二階の窓の外には池があった。雨は無数の針のようにその水面に落ちていく。音もなく。  十六歳のとき、初めてクラスメイトの男の子を好きになって、でも、ぜんぜん上手くいかなくて、世界が終わってしまったような気がして、すべてがどうでもよくなって、卒業したあとも、ぜんまいの残った動力だけで生きているような

          数秒前の星

          天使解剖

           暑い午後だった。フェンスの向こうには、夏の余白のような青空がどこまでも澄み渡っていて、その下には、ひとつひとつの屋根が日差しを反射させる、光に包まれた街がしんと横たわっていた。風が少女の紺のスカートを揺らした。昼休みが終わり、教室では五限の古典の授業が始まっているはずだった。  少女は、本当に、ひどく退屈だった。寂しさを1の粉、虚しさを2の粉として、それらを水で混ぜ合わせてできるような孤独が、彼女の心をひっそりと浸していた。保健室にしか居場所がないわけでも、市販薬を過剰摂

          天使解剖

          日記(2022-05-29)

           何をツイートしても恥ずかしい。ツイッターには、支離滅裂なことを言っていいねを貰っているツイートがたくさんある。あなたがそれを見たことがないなら、供養(twitter.com/kuyou_again)の過去ツイートを遡ってみればいい。だが、支離滅裂といっても、そこには破綻を面白く感じさせるための「型」のようなものがある。俺はこの「型」を見透かされるのが恥ずかしくてたまらない。ツイッターでウケを狙うことがもう本当に恥ずかしい。そこで、ただ支離滅裂なだけの面白くもないツイートをし

          日記(2022-05-29)

          ありふれた恥辱

           「雨の音が好きなの」と最初の女は言った。「どしゃ降りの日の窓辺で、雨の一粒一粒がアスファルトを叩く音にずっと耳をそばだてていると、それ以外の音がふっと消えてしまう瞬間がある。わたしが嫌なことを忘れられるのは、そういうときだけ。街の輪郭が雨の向こうにぼやけていくと、次第にこの世のすべてが雨に包まれて、自分の存在さえもそこから消えてしまったような気がするから」  男はラブホテルのベッドに横になったまま、彼女の言葉を思い出していた。雨が降っていた。彼は目を閉じ、外の地面や部屋の

          ありふれた恥辱

          読破のあと(あるいは世界の終わり)

          ひとり暮らしを始めてから、俺の「あばばば」の頻度はあきらかに増えていた。盆栽で本物のパンクを表現しようと苦心しているときや、すべての法律を破りながらラジオ体操をしているとき、内職でどぶろっくの歌詞を点字に訳しているときなど、その他さまざまな場面で、俺は唐突にあばばばばばばばと声を発して、そのまま横に倒れていくのである。 その日はアマゾンから段ボールが届いた。開くと、新品の体重計が入っていた。俺はそれを持って脱衣所に行き、以前からそこに備えられていた体重計の上に、先ほどの体

          読破のあと(あるいは世界の終わり)

          かけめぐる透明

          まあなんとかなるやろ、と夜行バスで東京へ。それがそもそもの発端で、ローソンでアルバイトをしつつ、一週間に一度はライブハウスで馬鹿みたいにがなりたてる。余った金は飲みに回す。この前、ベーシストがへべれけの果てに炊飯ジャーを頭からかぶって死んだ。なんとかなってない、なってんですかね? 禅問答を繰り返していたら、風邪をひいてしまった。 旅に病で夢は枯野をかけ廻る、なんて芭蕉は死の直前に詠んだらしいが、現在、おれは木造アパートの一室で病床に伏せ、その夢は地元のシャッター街をかけ廻っ

          かけめぐる透明

          重力のクロックス

          隣の三〇二号室に子どもがいることに気づいたのは先週からだった。このマンションに引っ越してきて三年が経つが、私はいまだ隣人と面識がなかった。 ご近所付き合いを避けること、他人の生活に干渉しないことがここでの不文律となっているので、私の人間関係の希薄さはさして特殊な例ではない。おそらく他の住人も似たようなものだろう。友人を家に招待して、食事会を開いたりするような親密な交際、ビールで乾杯し、赤ら顔で大声を上げながら夢や思い出を語り合うような、むなしい野卑な振る舞いが美徳とされる

          重力のクロックス