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夏が終わったら何が来ると思う?

 
 昔、謎々っぽくそんなことを誰かにきいて自分でもわからなくなって、本当に秋って来るのかなって言うところに落ち着いていたタイプの十歳児でした。
 

 そんな子供がそのまま背丈だけ伸びたので、ここのところ小説や短いお話ばかり書いていました。おかげで書きかけのお話やエッセイ(?)が数十個単位で生まれていて世に出したくて仕方ありません。

 わたしは自分で書いてて、何が一番伝えたいんだろう、とか一貫して何が大事なんだろうってよく考えながら書いて、そっちに気をとられて清書途中で公開しちゃったりしていました。
 
 noteを始めて二ヶ月程経って、伝えたいことや一貫したいことというところで出た答えがあります。 
 
 それは登場人物や打ち込んでいるときの私に愛があるかどうかです。

 愛って言葉自体曖昧で胡散臭いところがあってあまり多用したくないので、ちょっと愛について考えてみますね。

 うーん...

 ちょっと脱線すると、わたしと同じように「愛」って言葉に胡散臭さや古くささ、曖昧さを感じた人がきっといると思います。
 それはきっと、あなたやわたしが思い描く「愛」はもっと重たくて神秘的で、崇高なもの。あるいはもっと何かネットで取り寄せたり、そこら中にありふれてる、あるいは愛なんて無い、なんてそれぞれ信じてるからなんだと思います。
 
 そういう形やイメージを変えて何かを信じてる心の動き自体は結局、人間の思い込みや決めつけってくくられて然るべきって思うんですが、それはあまりにも冷たいですよね。もっと別の言い方があっていい。そこで登場したのが愛なんじゃないかなぁ...
 
 だから物語では、誰かが誰かを信じる定型が生まれるんじゃないかな。

 納得していただけましたか?

 わたしはしてませんよ?だって結局曖昧なままですもんね。
 わたしは、どこかでもっと重たいものだって信じちゃってるから。
  

 だからここでは、愛は誰かを思いやる心、くらいに留めておきますね。最初からこうしとけばよかったですね。

 登場人物が誰かを愛していたり、書いてるわたしが愛を込められるような文章を書きたいです。

 どんなに救いがないように見える文でも、愛があればまだどこかでわたしの中でいい物語になるって信じてるからなんですが。どこまで言っても自己満足ですね。
 でもいつか、それが漏れ出して伝わっていくような文章を書けたとき、そういえば昔こんなこと言ってたよコイツ!ウケる!あはは!
 くらいに思ってくれれば本望です。かっこよくないですか?
 
 逆に愛がない文章ってどんなんだよ、と思った方。あなたが文から愛を感じられなければそこに愛は無いんですよ。知らんけど。

 わたしはここまで書いてきて、以下のように思うのです。

 たった二ヶ月だけ書いただけのやつがそんな大げさなこと言って、恥ずかしくないのか?と。

  めちゃめちゃ恥ずかしいですよ?

 
 でも、わたしの大好きな夏が終わってしまったから次は愛が来ればいいよねって思ったのでそのことや、文章観について思ったことを書いてみましたよ。

 いいかい、そこの十歳児、夏が終わったら愛について考えるんだ。

 秋や冬は来るかどうかわからないけど、考えることはできるだろ?


 
 いつか悲しい思い出の夢ばかりで目を覚ますようになったとき、自分の助けになるようなことを考えておくんだよ!!!!!

  
 
 十年後、わたしにとってのヒーローは、君かも知れないんだよ。

 
  
 
 
 
 
 

 

 

  

 

 
 
 
 

 
 
 
 

 
 
 
 

 
 
  
 
 
 
  

 

  

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