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なつぞらが託した日本アニメーションへのエール

19年放送の朝の連続テレビ小説「なつぞら」には様々な感想が寄せられた。その一部で、寄せられたのが、成馬零一氏の発言(https://realsound.jp/movie/2020/01/post-471141_4.html)にあるような「当時、東映動画で起きた労働争議を描かなかったことで物語が歪になってしまったなと思います。(中略)60年代後半から70年代初頭にかけての、学生運動や労働争議は、戦争を描くよりも難しくなっているのかもしれないですね。」という点だ。

・なつぞらよ、組合はどこに?


 組合描いてない論について、私個人の意見を述べよう。
 なつぞらが組合を描いていないという嘆きに対する私の答えは完全にNOだ。
 なつぞらは組合をバリバリ描いている。
 そもそも、なつぞらの十勝編(主人公の奥原なつがアニメーターを目指し上京するまで)はずっと組合を描いているし、上京後も、折に触れて組合を描いてる。
「描いてないよ!(労働)組合も、労働争議も!」
 というお声はごもっとも。
 たしかに労働争議は描いてない、労働組合も具体的に描かれてない。(におわす場面は結構ある)
 主人公個人の待遇改善には、組合ではなく、アニメーターの皆で立ち向かって権利を獲得したという形で描かれているので、
 東洋動画(モデル:東映動画)の労働組合が経営陣と立ち向かい、交渉して、勝ち取ったという描写はない。
 じゃあ、なつぞらで描かれている組合ってなんだ!?というと、一つしかない。

 なつの故郷となった「十勝」の「農協」、
 そう「農業協同組合」である。


 「なんだそれは?奥山玲子さんがモデルなんだから(※ただし、この作品はオリジナルである)労組や労働争議、描かなきゃ意味ないでしょ!」という人もいるかもしれない。
 それは確かに奥山玲子さんという人物をモデルとした主人公を描くうえで、アニメーター奥山玲子である事と同じぐらい大切な側面だろう。できるだけ史実に寄り添った形で描いた方が良かったかもしれない。ただしドラマスタッフたちには事件や事故、当時の出来事を必ずしも忠実に描かないという選択肢は存在する。
 このドラマは再現ドラマでもなく、ノンフィクションでもなく、なつぞらのスタッフ達が生み出したオリジナル作品、フィクション、空想の産物だから。
 勿論、奥山玲子さんの人生や東映動画の史実をなぞるように描く作品があってもいいし、そういう作品を期待してた人が多いのも仕方がない。

 しかし、なつぞらはあえて、そこを描かなかった。

・組合を描く、その困難さ、その意義とは?


 なつぞらは確かに労働組合の詳細を描かなった
 その代わりに、組合の理想を「十勝農業協同組合」という組織の設立や成長の過程を描く事で、「労働者の権利を守り改善させる為に戦うこと」の精神、その理想を描こうとした。
 もちろん、大人の事情は色々と察せられる。現実問題として労働争議を描くには時間がかかるし、生々しい話過ぎて、たばこに火をつけようとする成人男性を描いただけでクレームがくる時間帯のドラマ枠では、かなり中身をぼかす必要もあるだろう。
 何よりアニメ制作パートの話から物語全体の重心が大きくそれてしまう事も確実だ。
 また、経営陣を強く糾弾する姿を描けば、肝心のモデルとなった会社からは協力を得られるか?となる。他の実在の会社や人物を描いたドラマでも、実在の組織、人々を描く上で「誰かを悪役にすること」はとても繊細な問題だ。(尚、戦争を描く方が用意なのは、第二次世界大戦における「悪役」はコンセンサスを得られやすいというのもあるだろう)
 こういう諸般の事情をクリアしつつ、東映動画の労働組合や労働争議をモデルとした物語を構築しても、忠実なドラマ化はかなり難しいのではないか。
 忠実に描くのも難しく、また、話の力点は大きくブレる。
 それでも、労働者の権利や待遇改善の為に尽力した奥山玲子さんの経歴を完全に無視するか、中途半端な形であれ映像化するべきか?となった時に、
 「中途半端な映像化はやめる」
「比較的、制約の少ない中で組合の精神を描く」
「現代のアニメーターにも繋がる組合の在り方を描く」
 と、このような決断に辿り着いたのが、なつぞらの制作陣なのでは?と私は推察している。
 そして、その労働組合に変わって、作品内で「組合」の理想形としての役割を一貫して託されたのが「十勝農業協同組合」だ。
 「組合」とカウントされない方もいらっしゃるかもしれない。農業協同組合もまた「組合」といえば「組合」である。
 労働組合はその多くが会社といった組織単位の労働者の為に結成された組合ならば、
 農業協同組合は、農家(作中では主に酪農家)という同業者によって結成された協同組合である。
 ここがポイントだ。
 あえて、「会社単位」で結成される事が殆どの「労働組合」に力点を置かず、「同業者の組合」を丹念に描く事。
 その意義だ。

 それは「現在のアニメ業界の労働環境を改善させるには、もはや既存の会社単位の労働組合では難しく、会社の枠を超えた組合の必要性を訴えなければならない」だろう。

 作中で既に管理職となり労働組合と対立する側のはずのアニメーター井戸原が、主人公の奥原なつが産休明けの就労の継続を経営者に談判した時に、彼が同行した際に発言した内容からもその答えが見え隠れする。

「組合の垣根を超えた、アニメーター全体の連帯です。」

 現在のアニメ業界において、しばしば物議に上がる長時間労働、賃金未払い、全体的に適当に済まされている労働契約といった業界の悪しき慣習、その改善に必要なもの、それはアニメーター全体の連帯、つまり、組合が必要だと、なつぞらは描きたかったのだろう。 
 本来、待遇改善の為に会社と交渉する役割を持つ労働組合を取り巻く環境は、かなり厳しく、加入率はアニメ業界ではなく、労働者全体を見ても17%を切り、二割にも満たない。
 しかも、アニメ業界はフリーランスの割合が50.5%と最も多く、会社に所属していない人が半分以上いることになる。主に会社の社員が中心となって結成され運営される労働組合だが、アニメ業界の正社員率は14.7%と、こちらも二割も満たない。

 簡潔にまとめると、
 日本のアニメ業界は、一般的な労働組合の力が発揮できる業界ではない。
 という事になる。

 では、こういう現状の人達が東洋動画の「労働組合」と「労働争議」をモデルとした「労働組合」や「労働争議」を例えドラマとはいえ、見た時に何を思うだろうか?
 きっと、それは主人公の奥原なつが東洋動画に入社した際に描かれていた「正午のベルが鳴ったら、昼休みをとる」という描写に「すごいホワイト企業!」とか「こんなの今じゃ考えられない」といった数多くの呟きをアニメーターやアニメーターを経験された方々したように、
「昔はこんなんだったんだねえ」
「今じゃ、こんな事できないよ」
という懐古だ。
 そして懐古って、大抵が懐かしいなぁ、で終わってしまう。
 まして、昭和を生きていない時代の若手中堅アニメーターに至っては、うらやましい以前に、「ああ、これは歴史上の出来事ですね!」ぐらいに受け止めるんじゃないだろうか。
 「昼休み取れるっていいな」より、はるかに要求のレベルの高い労働運動を描いて、果たして共感をもたらすのか。
 雲の上の出来事だなあと受け止められずに済むかのか。
 勿論、一企業(しかも業界を代表する企業)の労働者の為の運動や経過を見せる事の大切さは否定しない。本来ならば、このような組合活動は活発であるべきだし、それによって労働環境を改善していくのが真っ当な手段といえる。
 けれど、アニメ業界全体の現状を見た時に「この労働問題は一企業の問題解決では変えられない。業界全体を変えなきゃ解決しないんじゃないか?」と思っている人は多いはずだ。
 なつぞらの制作陣もまた、労働組合を描くかどうか考えた時に、前述した諸々の制約を考えると同時に、アニメ業界の現状を念頭に置いて考えたのだろう。
 そして、同様の答え、「業界全体の改革」を出した。
 だからこそ、企業単位で結成される「労働組合」ではなく、「同業者が連帯する組合」の意義を、「十勝農業協同組合」に託したのだ。
 なお、産業別組合、職業別組合は日本では殆ど存在しない。
 というわけで、厳密には労働組合とは違う組織だが、相互補助の精神をもって結成される協同組合の中でも、比較的、認知度の高い農業協同組合の結成と発展に置き換えて、
 理想の組合とは何かを描いたのだ。

・なつぞらよ、理想の組合はどこに?

 理想の組合?そんなこと、どこにも描いてない、説明していないじゃないか!という視聴者もいるかもしれないが、とりあえず、奥原なつが育てられた柴田泰樹に上京する理由を説明する時のやりとりを思い出してほしい。

 「漫画映画を作りたいのさ。作れるかどうかわかんけど、どう作ってるかもわからんけど、やってみたいのさ。挑戦してみたいのさ。爺ちゃんが一人で北海道に来て開拓したみたいに。私も挑戦したい。
  私、爺ちゃんみたいになりたかったんだって。それは私には漫画映画を目指す事なのさ。
「行ってこい。漫画か映画か知らんが行って、東京を耕してこい。開拓してこい。


 まだアニメーションという言葉すらない時代では、現代の日本のアニメーションを想像する事は難しく、当然、アニメーターという言葉すら知られていない。アニメ制作の世界は想像すらできない時代である。当然、専門書もなければ専門学校もない、アニメという言葉はなく漫画映画という言葉はあるが、まだその存在はないに等しい世界。
 その制作者を目指す事を、奥原なつは北海道の十勝に単身開拓に挑んできた、爺ちゃんみたいになりたい、と表現し、育ての祖父泰樹もまた、「東京を耕してこい、開拓してこい」という、泰樹から見れば、アニメ制作に挑むことは自分が北海道の原野を開拓してきたことに等しい。
 その後、なつは上京し、紆余曲折ありつつも東洋動画に入社し、アニメーターになる夢をかなえていくが、その過程で、日本のアニメ界が花開いていく様子をなつぞらは描いている。
 なつやその同僚たちは、北海道の十勝を開拓した泰樹のように、日本にアニメーションという世界を切り拓いていった「開拓者」なのだ。

 つまり、一見、アニメと全く無関係に見える北海道の十勝に住む「開拓者」の人々は、
 日本アニメの世界を切り拓いてきた人々を隠喩している存在、いわいるメタファーなのだ。


  爺ちゃんのように切り拓く人になりたい、と言って、その立場になった、なつや彼女たちと同時代を歩んできた人々は日本アニメ界の「開拓者」、「開拓一世」に相当する。

・視聴者よ、十勝に「組合の理想」を見よ

 そう置き換えて、なつぞらを見てみると、十勝で描かれた農協や酪農のパートが途端に別の意味合いを帯びてくる事もわかるはずだ。
 では、十勝の農協が描かれたパートをおさらいしよう。
  まず、零細の酪農家と有力な酪農家の垣根を越えて団結することで農協が乳業メーカーと平等な取引を実現する過程を詳細に描いた。安定した乳量を確保できる厩舎と乳牛の頭数を確保している「開拓一世」の泰樹と違って、後追いで酪農を始めて満足な乳量を確保できない弱い立場の酪農家である山田天陽の一家は乳業メーカー側から不当な扱いを受け、牛乳を買い叩かれている、それを解決するにはどうしたらいいのか。
 それに対抗するには弱い立場の酪農家も強い立場の酪農家もその垣根を越えて、十勝の酪農家として結束し、組合という集団で、乳業メーカーと対等な立場に立ち、正当な値段での牛乳の取引を勝ち得ることで、弱い立場の酪農家も乳業メーカーとも立ち向かえることを描いている。
 また、終盤には、その農協が独自に乳業会社を設立し、自分たちの手でバター工場を建設しようとする。それを乳業メーカーが国に働きかけ妨害しようとし、それらを酪農家たちが団結する事で圧力を跳ね除けて、工場建設の届出を出す所まで描かれている。
 国やメーカーからの妨害工作を跳ね除けるべく、工場設置の届け出を迅速に提出する同議を得るための会議は紛糾する。
 国が妨害してくるという事は、酪農家達がバター工場を設立するという事が無謀な行為だからではないか、乳業メーカーを敵に回し、バター工場建設が失敗したら十勝の酪農民は更に苦境に立たされるのではないか、と危惧し反対する組合長の言葉に対し、
 集まっていた酪農家達の中で、柴田家で牛飼いとして働く「開拓二世」の菊介が言う。


「その工場は他の乳業メーカーよりも美味いバターが作れるんだべ?俺らがもっと俺らの手で美味しいバターを作ろうとしているだけだべさ」
「したら、なして迷うことがあるんだ?俺らの手で人を喜んで貰う事になして迷う事があるんだ?ここにいる人は大抵が開拓者の二世か、三世だべ。親父らのように荒れ地を開拓した誇りは俺らにはないかもわからんけど、俺らにだって開拓できることはまだまだあるはずだべさ。
 俺は学もないただの牛飼いだけど、俺らの絞った牛乳が人に感動を与えるようなものになるなら、こったら、嬉しい事はないもな。どうか、その工場を俺らに作ってください。俺らに牛飼いの喜びを作らせて下さい」


 この言葉を受けて、会議の雰囲気は一変し、雪崩を打って賛成に回る。
「バター工場建設賛成!」の酪農家達の檄の合間に、なつが叫ぶ。
「十勝の酪農を守れ!」と。
 さて、先ほど、なつぞらの十勝の開拓者たちは日本アニメ界を切り拓いてきた人達の隠喩だといったが、
 その開拓者の息子、「開拓二世」である菊介は、誰にあたるのだろう?
 「開拓一世」=日本アニメ界の黎明期の立役者達
 とすると、開拓二世、三世は、その後の日本アニメ界を支えてきた、または今日も支えている現役の日本アニメの制作者の事だろうと連想することはできる。
 日本アニメ界の開拓一世の一人なつが「十勝の酪農を守れ!」と叫ぶこと。
 それは「日本のアニメを守れ」と同義だ。
 そして、開拓二世である菊介が言った事は、現代の日本アニメでアニメーション制作者達の声そのものではないだろうか?
「少しでも良いアニメを作りたい」
「自分達のアニメで人を喜ばせたい」
「自分たちのアニメで人を感動させることができたら、これほどうれしい事はない」
 乳業メーカーの言われるがままの値段で牛乳を取引していた状況を変える事、
 乳業メーカーを介さず、バター工場建設という酪農家達の手で直接美味しい牛乳を届け、かつ、酪農家の生活を支えること。
 これは駆け引きの苦手な酪農家の常識を変える事に他ならない。(なお、偶然の一致ではないと思うが、アニメ制作者も「報酬その他、交渉力の弱い」と答える人が38%、存在する)
 それを酪農家達が先駆者も後追いの酪農家も関係なく、「農業協同組合」という形で結束することで、乳業メーカーと対等でなかった状況を変える。乳業会社を自ら設立することで、酪農家自身が産業の在り方すら変える事ができる。
 それを日本のアニメ業界でもやろう、やれるんだ!という事をも表現したのが、十勝の酪農パートなのだ。勿論、アニメ業界だけではなく、他の業界でやってもいい。
 農家という特殊でない業種の人々がやれることなのだから、この酪農パートが訴えたいことは普遍性を持つはずだ。


 なお、それには確かに業界を変えたいという強い意志と行動力を持つリーダー(十勝農業協同組合における組合長)、それを支えるブレーン達の必要性(柴田剛男、夕見子)、そういう機運が起きた時に賛同する業界の人々が不可欠な事も描いている。


・日本のアニメ制作者よ、日本のアニメを守れよ

 さて、おわかりいただけただろうか?
 なつぞらは確かに東映動画の労働争議を描かなかった。
 しかし描かなかったからといって、日本のアニメ業界の問題点である労働問題について目を逸らして背を向けたわけではなく、むしろ、その問題と問題に対する制作陣なりの答えを見せた。

 そして、主人公に言わせた「十勝の酪農を守れ!」は、間違いなく、制作者から「日本のアニメを守れ!」というエールなのだ。

 そういう視点で見なかった、という視聴者の方も是非、NHKオンデマンドやNHKオンデマンドforprimevideoと契約して、なつぞらを再び視聴してほしい。あ、もちろん、DVDやブルーレイでもいい。
 そして、なつぞらの世界に込められた制作陣からの熱いメッセージを受け止めてほしい。

 なお、この記事を制作するにあたり、以下の資料を参考にさせて頂きました。
参照元:アニメーション制作者実態調査報告書2019 http://www.janica.jp/survey/survey2019Report.pdf)