ちぐはぐの中に込められた本当のテーマとは?(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
今日は僕の解釈じゃないことを披露したいと思います。その作品が難しいとかじゃなくて、書いてるなにかをより知りたかったから、自分で調べてみました。
今回の作品は、多和田葉子の『盗み読み』です。
主人公の女性は、色々な職業の男性と会いますが、その会話はちぐはぐです。ただ、その会話には、実は意味があって、ジェンダーのことについて話しているのでした。
実は大学生のときにジェンダーについての講義を取っていて、A判定までもらったのに、実際はそこまで覚えていないし、上手く文学にいかせてないテーマです。
この作品が発表されたのが九十六年で、女性の労働参画がやっと行き渡ったぐらいの時代だと思います。ただ、現場まだ違って、男尊女卑だと思います。だから、作品出てくる男たちというのは、当時の男性を描いていると思います。
この作品のネックになってるのは、テーマであるジェンダーをちぐはぐな会話の中において散らばせることによって、まるでアイロニーにすることです。それは当時の世間に対する反抗なのかもしれません。文壇もそうだったのかもしれない。
話は飛んで、僕自身の話になりますが、僕は若干女性恐怖症を持っています。女性はなにを考えているかわからないというのが、頭の中にこびりついて、離れません。
男もそうだし、他人なんてぶっちゃけそんなものなのかもしれませんが、女性の前に立つと緊張してしまいます。知り合いはなんとか緊張しないで話せたりするんですが、面識のない女性になると丸っきりダメですね。
だけど、彼女は欲しがっているんですよね。矛盾した話になりますが。
女性に対しては、敬意を払っています。特に知り合いになればなるほど。これがいけないのかもしれませんが、知らない人に対してもそうしなければならないのかもしれませんが。最近は、そうしたんですけどね。
女性って、僕から見たらすごいと思うんですよね、子供産むことができるというのがあります。それって男にはできないことじゃないですか。だから、僕は尊敬の念を持っています。
もしかしたら、女性に対して神秘性を持ちすぎてるのかもしれないですね。ここまで書いてみてそう思いました。
あと、この作品を読んで思ったことは、ちぐはぐな会話に対して感銘を受けたというか、感心したみたいなことを受けました。
ちぐはぐな会話って一見だれでと書けると思うんですが、それを一貫したテーマを持ってズラしていくということが、やっぱりプロは違うなと思いました。
僕はナンセンスとかシュールをやりたい人間なのですが、そういうことを直感的にやってしまって、読者からしてみれば、それは唐突で意味がわからない、もしくは意味のないことのように捉えられるような気がします。
今年の十一月に前衛小説アンソロジーという作品集に参加するのですが、それはしっかり意味のあるものにしたいものにしていきたいとは思います。
そのためには、プロットが必要だと思います。それをしっかり作って作品を書きたいとは思っています。
先日、作品の案はまとまったとtwitterでツイートしたのですが、それだとできないことがあるような気がしたので、もうちょっと案を練りたいと思いました。
そんな感じで、今日はこんな感じで終わりたいと思います。
告知なのですが、もしかしたら、近々小説をアップするかもしれません。
その時はよろしくお願いします。
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