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桜の並木でも渋谷の街でも感じることとダメな男(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 季節の変わり目なのか、今シーズン二回目の風邪をひいてしまいました。
 乾燥した部屋にいると喉がいがらっぽくて違和感を感じます。
 マスクの意味も花粉症から咳を撒き散らさないようにするものになってしまいました。
 それでもタバコを吸うのは謎ですがね。
 
 さて、今回は『桜のの森の満開の下』についてのレビューを書きました。まだまだ拙いところはありますが、よければ是非とも付き合ってください。
 
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 この時期にこの作品をやることを少しためらった。それはベタであるから。でも、それはこの時期にしか出来ないという二律背反的なものもあった。
 だいたい今よりちょっと早い時期に去年はこの作品を読んだ。それは、坂口安吾リミックス小説を書こうと思っていたからだったが、体調的な面からそれは不可能になり、物語詩という形で、崩れる本棚にこの作品のリミックスを書いた。
 
 今回の再読にあたっては、注意して読んだのは、男と女の関係性についてだった。
 男の方は女に出会うまでは、七人もの妻を囲い生活をしていた。想像だが、それはけっこう豪快な人間だったのではないだろうか。
 それに対して女の方は、主人と山を歩いていたら男に主人を殺されて連れていかれた。連れていかれた家には、女性としての美しさを抜かれた女が七人いて、それに嫌悪して、びっこをひく女以外全員男に殺させてしまう。 
 女の登場により男の性格が矮小化されることと、女が高飛車になること、これが物語を引っ張っていく。
 山の飯は美味しくなく、景色も飽きたと女は言って都に連れ出す。男も嫌々ではあったがそれに従って暮らすようになる。びっこの女も一緒だ。都の生活は女の方は狂っていた。男に首から上を切った頭を持って来させて人形遊びをする。その頭が腐り、白骨化しても遊びは続いていた。他方で男は、自分が都では荒ぶれないことにストレスを感じていた。つまり、自分の場所は、ここではないと思うようになってきていた。
 あるとき女に山に戻ることを打ち明けると、女も山に戻ることに賛同し、帰ることになる。その帰りの途中の桜の木の下で、おぶっていた女が鬼のようになってしまい。殺してしまう。
 殺したあとの桜の木の下には、孤独が漂っていた。
 
 また、あらすじから説明をしてしまったが、荒っぽい男が、高飛車の女と出会うことで立場が下になり、女の始末を男がやるようになる。坂口安吾はどちらかと言えば、フェミニストな作家だから、女性が強い傾向にある。だが、出会ったその日に気に食わないから、今まで一緒に生活していた女たちを殺させるという女の指示と男の精神が分からない。どこかで情みたいなものは湧かないのだろうか。ちなみに、このシーンの前に満開の桜の森の下を通る有名な会話文があるが、あれはなんとも言えないやり取りで、男が子供のように秘密基地を守っているようなニュアンスがあって僕は好きだ。
 
 都に行っても男は空気が合わなかった。女は、自分の好き勝手にやっていた。と、話の中ではなっている。ただし、男が山に帰ると言い出すと女も私も一緒に行くという。ここに疑問点を感じる。
 考えようなのかもしれないが、男を良いように使ってきた女が、男がいなくなることによって困ってしまうから、一緒について行くというのがある。でも、読んでる印象的には、男が帰るから、女も帰るみたいな条件反射的なもののように思われる。そして、それは一緒に帰ることによって物語を転がしていくという作者の魂胆が見え隠れする。
 時期はまた桜の季節。峠の桜の下を通る時、男が不安を抱えます。その具現化が女が鬼であったということだ。どうにか背負っていた鬼を下ろして、格闘して首を締めると、女の姿に戻る。これは一種の暗示なのかもしれないし、ただ、女が桜の木の下で鬼になった方が面白いと思って書いたのかもしれないとかいたのか。
 僕は二人で山に帰ることに関しては、尊重していないというか、先も言ったように物語を転がすもののようにしか思えない。
 
 押しつけがましい話が無頼派の作家は技巧的な小説よりもエンタメよりの小説を書いていると思う。どこかで人を楽しませる。これはれっきとしたフィクションであるというような。
 ただ、この作品を読んで今改めて感想を書いてみたところで、しっかりとレールは敷かれているが、それがところにより無理があるように思えて見えた。
 
 最後に作品の悪いところを書いたように思われるかもしれないが、僕はこれからもこの作品は読んでいくと思う作品だろう。

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