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幸福の手紙と不幸の手紙は同じものだよ(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 もし、知らない人からあなたに近しい人の密告のメールが来たらどうしますか?
 あなたは信用しますか?
 それとも、そのメールを放置しますか?
 
 フィクションとは不思議なもので、そんな手紙が来たら、密告された相手に確認の手紙を送って確認をして、密告者を探してしまうもので、それを放置するようなことは全然しないのですね。
 じゃないと話が進まないから、特に短編だと。長編だと、そんな手紙が来ていたなぁと保留をしていて物語を続けてしまうものです。
 人により差はありますが、自分だったらそうします。

 後藤明生の『謎の手紙をめぐる数通の手紙』は、ある人物の言動について言質を取ろうとした手紙がやってきて、それを受け取った人間が本人が手紙で確認して、確認された人間が違うと差出人に返すというやり取りを繰り返すという、不毛とも言えるやり取りが続き、結局解決は至らないで終わってしまう。
 読者はたらい回しに合うことが、イライラすることがあるかもしれない。だが、それが謎を解決するかもしれないというワクワク感によって、どんどんと読むペースを上げるかとしれない。ただ、最後になってなんにも解決しないことに落胆し、今まで読んだことが徒労に終わってしまうのが残念かもしれない。
 ちょっと毛色は違うが、ミステリーで同じような話がある。貫井徳郎の『プリズム』だ。ネタバレになってしまうが、この小説も最後まで読んでもなんにも解決はしない。ただ、なぜなんにも解決しないかということに意味がある。それは実際に本を読んでみて欲しい。
 
 最初の方に話を戻すが、小説とは不思議なもので、現実では起きないことが起きて、それに積極的に関わろうとする節がある。
 自分の妻がいなくなってもそこまでパニックになる事ならずに、至極冷静に妻を探す。
 自分が通う学校の体育館で殺人事件が起きても取り乱すことなく、事件を解決しようとする天才人間がいる。
 特にエンタメは何かが起きないと物語が始まらないというのはよくわかる。日常系のエンタメ小説というのは、あんまり聞いた事がない気がする。もしかしたら短編であるかもしれないが。
 読者も何かしら起きることを期待している。ハリウッドの映画は、十五分に一回は何かしら起きているという話がある。純文学には当てはまらないことかもしれないが、やっぱり、事件は起きたら起きただけ読者を作品の世界に引き込むことが出来るのかもしれない。
 ただし、それを一個ずつ伏線として回収していかなければならない。その重労働がある。
 純文学は、そういうことはいらないが読者を作品に受け入れられるような、語彙力、文章のセンスなどなど細かい部分が必要なのではないだろか。
 これはぼくの個人的な見解である。当然、これを真に受けないで欲しい。でも、書いて思ったのだが、繊細な純文学と派手なエンタメという構図が見えた気がした。
 それは、大雑把な見え方であって本当はその逆もあるし、もっと細分化もできるであろう。
 
 最後に、じゃあ、後藤明生はどっちなのかという問題なのかといえば、エンタメっぽい書き方する純文学の作家だと思う。何かしら物語の最初に謎みたいなものを持ってきて、それをテーマに話を進めていく。それはエンタメの書き方だが、純文学らしい静謐で不条理なエンタメではできないような話の展開である。(エンタメは地に足が着いた話が多いので、非現実的な要素の多いものは、少ないし、エンタメでは書かれない)
 だから、後藤明生は純文学の作家であると僕は言える。根拠は的確ではないかもしれないが、僕のふるいのかけ方だとそうなる。
 話がズレるが、僕はどこかで後藤明生に憧れる。意味の無い話。ナンセンスなこと。それは僕の目指す文学だからである。時間があれば、また別の作品を読んでみたいと思った作家だった。

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