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これは厚くて熱いラブレターみたいなもの(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 だれにも触れらたくない過去がある。それをきっかけに社会に対して自分を閉じてしまう。それでも、社会にかかわらずには、いけなくて、それなりに普通の人のように振る舞う。
 社会に奉仕するわけではなくては、ただ賃金を得るためだけにやっている。他人は知らない。自分の過去のことを。でも、自分の中にはトラウマのように残っている。ふとしたきっかけでフラッシュバックする。

 たとえば、昔、超能力少年です。と言われた少年が生放送でスプーン曲げに挑戦したが失敗したとする。少年の心にはそのことが残り今もそのことが心のどこかで残っている。
 大人になってコーヒーを飲んでいる時のスプーンにそのときにのことを思い出してしまう。なんでもない瞬間に思い出す。
 それをなかったことにするかのように彼は生活を全うする。
 人の記憶は曖昧だと言うけれど、いざという時のことは忘れないでいる。
 
 だれでも一つは抱えてることかもしれない。過去のトラウマみたいなもの。小さいときに感じた嫌なこと。
 
 冴えない男にその超能力とそんな過去があったなら、どうなるか。
 彼はきっと苦しんでいるかもしれないと思うが案外そうでもなく、悠々自適に暮らしていた。落語の寄席なんかに行きながら嫌な現実を忘れているのかもしれない。
 ただ物語はそう平板には行かないと彼に不幸が遅いかかる。彼の経営している印刷所での事故、結婚詐欺、過去を知る人物との遭遇。それでも彼はあまりブレずに生活を送る。
 彼は結婚詐欺の女性に惚れてしまった。なんとしてでも出会うために自分の過去をかなぐり捨ててまで再開をしようとする。
 そのときの彼の超能力は覚醒していた。
 そして、血の池となったプールで惚れた女に指輪をあげてセックスをするのであった。
 
 波乱万丈の話だが、この話は『破戒』という漫画で原作は松尾スズキだ。そしてこれは漫画で画は山本直樹だ。エログロという程ではないが、狂気に充ちた話が描かれている。
 松尾スズキは大学生のときに図書館にあるだけの戯曲を読んだが舞台を観に行ったつい最近だ。彼の作品は人間の業やエゴが書かれることが多い。それは泥臭い感じがする。観終わっても、心の中にカタルシスが残らない。それがいいという人が沢山いるからチケットが取りにくい劇団なのだが。僕はナイロン100℃という劇団が好きだ。スタイリッシュだし、どっちもシニカルだからナイロンの方がライトだ。それでも、松尾スズキには人情を感じる。人を突き放してていても、どこか人と繋がっているなにか。それが松尾スズキ流の愛なのかもしれない。
 絶望の果てにはきっと何かある。それは宇宙の果てはあるというのと同義であるように。フィクションはあるドラマチックな部分をトレースした話だ。その前後にも物語がある。でも、ある地点からある地点が人を揺さぶるような出来事が起きるから描くのであって、物語の最後がハッピーエンドでもバッドエンドでもそれでも登場人物の人生は続いていく。だから、それで一喜一憂するのも間違っているのかもしれない。
 かの有名なテレビアニメの二次創作はごまんとつくられた。それはそれぞれの受けてが登場人物の物語を続きたいと思ったからだ。ちょっとお節介なことを言えば、救いのない話に救いを与えたかったような、自分が救世主であるかのようなことをしたかったのかもしれない。
 
 松尾スズキの話に戻すと、悲劇は一過性ものだが、人を狂わせる。それにハマりどんどんと人はダメな方へと流れていく。だが、そこでたった一つはの石ころほどの偶然や奇跡やなにか女神みたいなものが登場人物すれば、ダメな方に向かいつつも最悪は免れる。絶望を諦める諦めないではなくただ流されていく中での出来事だ。絶望の最中は、周りが見えない。『破戒』には絶望はないがダメな空気がプンプンとずっとしている。それは本人には気づいていない。それを助けるのは、勇気かもしれないし行動力かもしれないが、結局は、偶然や奇跡めいたものなのだ。
 フィクションに偶然や奇跡用いることはタブー視されることかもしれないが、人を堕とすにそれなりにプロセスが必要だし、浮上させるにもそれなりのプロセスが必要だ。
 
 紙の上で人の人生を上げ下げすることなんて簡単なことなのだ。
 それを喧々諤々とあれこれ言い争うように批評する人たちはバカだ。作者の術中にハマっているのだ。

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