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野田秀樹の「半神」の意味が少し分かった気がする

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 今回は、レイ・ブラッドベリの『霧笛』という作品です。
 ぼくが、この作品に出会ったの大学生のときです。
 ぼくの好きな劇作家で演出家で役者の野田秀樹の「半神」という作品に、この作品の一節を輪唱するシーンがあります。
 なんて美しい言葉たちが並べられているんだろうと思いました。
 ただ、意味が分かっていませんでした。
 それが今回この作品を読んで分かったような気がします。
 
 一億年も前から海の底で、最初は仲間がいたが段々と消えていく。そして、ひとりぼっちになっていった怪物。霧の濃くなる十一月になると必ずあらわれる。
 なぜか?
 それは、灯台の霧笛の音が自分たちの仲間の声に似ているから。ずっと孤独であったのに、突然あらわれた仲間に会いにあらわれる怪物。怪物というより恐竜という方が正しいのかもしれないが。
 しかし、怪物は灯台を壊してしまう。
 それ以降、怪物は来なくなってしまう。
 
 霧笛の音が怪物の音と似ているというところで、仲間がいると思って海底から上がってくるということに、胸を打たれました。怪物はずっと一匹だったにも拘らず、ある日突然仲間の声がするようになった。それに惹かれて行くと仲間はいない。
 その孤独と話を暗示しているのが、この作品の初めに登場する、マックダンという男の作り話である。
「その昔、ひとりの男がやって来て、陽のあたらぬ冷たい岸辺に立ち、大海原の轟きのなかで、こう言った。『この水を越えて、彼らの船に警告する声が必要だ。わたしはそういう声を作ろう(以下略)』」
 「半神」でもこの部分が輪唱されている。
 この部分を説明したいのですが、上手く説明出来ない。とにかく、「孤独」というものの本質を突いている。
 つまり、繰り返しになってしまうがこの暗示があるから、怪物の孤独がスっと頭の中に入ってくる。
 深い作品になっている。
 
 この作品は「孤独」の普遍性について語っているような気がする。
 人間がみな孤独であるというのと同時に、他の生物でも、孤独なんだと言うことを寓話とは言い過ぎかもしれないが、SFとして落とし込む。これはむしろ、純文学に近いのではないだろうかと思ってしまう。
 そして、なにより孤独というのは、人より孤独ということに敏感になっていないと書けないと思う。なので、ブラッドベリは、そういう気持ちには人より感じ安くなっていたのではないだろうか。

 ぼくは逆に孤独については書いたことがない。常にパートナーがいる男を主人公を書いている。最近では、パートナーが失踪する話を書いたが、結局は別のパートナーを見つけてしまう。つまり、孤独が嫌で常にだれかといないとダメだというのを表しているし、ぼくの表現的に、だれかといた方が事件や出来事が起こり安いので、二人一組で小説を書いているところがある。
 ぼくは人に言われたのだが、「簡単な方に流されるな」と。
 そろそろ別の形式で書いた方が良さそうになってきたのではないだろうか。
 
 話がズレたが、今回の作品は色々と考えさせられました。

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