昨日の文フリについて(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
昨日は、文学フリーマーケットでした。(時系列は察してください)
なんかねぇ、これと言って特に感慨もなく終わってしまって、「文フリ」ってこんなんだったっけって思いました。
いや、語弊がないように言えば、面白かったんですよ。面白かったんですけど、なんか不発に終わった感があるんですよね。
売上は、最終的には着地する所に着地したからまあまあかなって思いました。
そこで実感したのは、やっぱりもうちょっと宣伝に力入れた方がいいかなという、毎回思うことですね。今回は、全体的にダラダラやりすぎた感じがあるので、それがあるし、それでもなんとかなるでしょーっていう甘い考えがあったからだと思うんですよね。
どんなにいいソフトを持っていても、売り手がサボってたら全然ダメなんだなと思いました。
そんなことは、帰りの電車と会社で仕事をしながら考えてたんですよね。
自分がダメだなって思うよりも、なにか出来たかもしれないっていう悔やんでも悔やみきれない後悔みたいなのがあります。
たぶん、Pさんとは、そこでぶつかるとは思うんですよね。宣伝しなくても、売れるものは売れるみたいなことを言われそう。宣伝しないも最小限の宣伝であって、毎日Twitterに付きっきりになって宣伝しないほどっていう程度の意味あいで。
次回の文フリの予告をしてしまえば、崩れる本棚新刊祭りになると思います。たぶん、新刊が少なくとも三冊は出ると思います。
過去作はもうクローゼットの奥に眠ってもらおうと思っています。
俗にいう「選択と集中」というやつです。
新刊の一冊の中にはこのマガジンが入ってます。これは、テキストレボリューションっていうイベントで先行販売したいと思っています。
あと、好奇心の本棚も文フリで書籍化するし、僕の最新小説も出す予定てまいます。
ほら、あっという間に三冊って行ってしまったでしょ。あとは、崩れる本棚のメンバーが個人誌出せば、それ以上になる。
だけどさ、新しい玉を出せば売れるっていう発想もどうかなと思ってしまう。
でも、時間が勿体ないじゃん!
こんなに頑張って書いてるエッセイを誰にも読んで貰えないの嫌じゃん!
だから、一人でも多くの人に届けたいし、過去から振り返って読んでもらいたい。
それは小説もそうなんだけどさ。
そう!
結局は、承認欲求が埋まらなくて泣いてるのかもしれない。
僕は今回の小説は尖った感じで書いた。けっこう好き嫌いを選びそうな作品を書いてしまったのは分かっている。でも、あの温度と質感は、書いたあの瞬間しかなかった。あれは、ノンフィクションのようなフィクションだから。どこまでが? なにが? それは教えません。でも、『錯覚の春夏冬』を読んでいただければ、謎は解けるように出来ています。僕がなにを一番書きたかったか。それは、人やものではないということです。
なんかあとがきみたいなこと書いてるけど、たぶん、それはそうなのかもしれないし、次回の同人活動のための宣誓文なのかもしれない。
同じ過ちをするって実にクレバーではないし、人が一生懸命やってることにはすに構えることでしか対応して来なかった。
その考えを改めるべきなのではなのではないだろうか?
たまにレビューで同じような言葉が出てくるが、結局同じ過ち繰り返している。
クレバーじゃない。
ぁあぁ、もっと頭良くなりたい!
もっと、小説上手くなりたい!
なんてことを考えながら、電車の中でスマホにテキストを打ち込んでいるのでした。
明日は、文学と僕をお送りします。
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