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おばぁちゃん、入れ歯は口の中にあるでしょ!(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 部屋が汚い人って、どこにどれがあるかっていうこと把握している人っていますよね。でも、それって一種の思い込みだと思います(自責の念もある)。
 ある日、あるとき、必要なモノがなくなったというときに探す時に非常に時間がかかります。
 まずは、それぞれのブロックに置いてあるもので当てはまるところを探す。次に近隣のブロックを探し出す。なければ、立ち上がり一旦腕を組み頭の中を整理する。直近で使ったことなんかを思い出したりする。それから、もう一回最初に探し出す一番ありそうなブロックを探す。あとは、捜査範囲を段々と広くしていき、もとあった部屋よりさらに汚い部屋が出来上がる。
 
 されど、モノは見つからず.......。
 
 もうどこを探していいかわかるずに家のある場所、服のポケットまで入念に探す。
 もう見つからないと心の諦めてベッドに倒れ込んだときに見える、一番最初に探したブロックの端っこの方で捜し物はひょっこり顔を出しニタニタ笑っていた。
 
 結局は灯台もと暗しというわけだ。
 
 そんな盲点をミステリーにしている小説がポーの『盗まれた手紙』だ。
 
 僕の小話では具体的にはなにを探していているかは書かなかったが、こちらでは手紙が盗まれたている。
 古典なので手紙がどこに隠されていたかったということを書いていいのかもしれないが、あえてそれは書かない。大掛かりに隠されてはいない。極シンプルに手紙は隠されてあった。それは盲点だろう。
 
 人の思い込みは強い方で先の例え話でないと思ってしまったら、そこはないし、ないと思った場所にははなからないと思っている。
見つかる瞬間は喜びとともに落胆が一遍に襲ってくる。メガネがおでこにかかっているのにメガネを探す人はボケだけではなくて、なくて思い込みから来ているものもあるのでまないだろうか。
「ないないと思うからない」んだということをいう人がいるがマインドしてはそれはあながち間違えではないのではないだろうか。ただ、探す時間が書かれば「ない」という気持ちが勝ってくる。
『盗まれた手紙』に出てくる名探偵デュパンはそういうマインドでは探してはいないが、あることを前提に探していたかのように思える。というか、警察間抜けで屋敷中をくまなく探査したことに対して懐疑的であった。ミステリーの構造上、警察は探偵より劣っているというのが常である。デュパンには何かしらの勝算があったのかもしれない。それはタネを明かすまで見ることはなかった。
 
 捜し物が得意な人の特徴は、自分の性格を客観的に見れている人だと思うし、なくなったことに対して冷静ない人だとも思う。
 まぁ、僕の生きてきた中でそういう人は聞いたことがないが。でも、探すときに他人かま入ることによって冷静な判断を下すことはできるような気がする。
 人が一生懸命探してるのに、「捜し物はなんですか?」とか「それより僕と踊りませんか?」とか言うやつがいるが、そんなやつは論外だ。
 
 真夜中に急になにか探したくなることがある。逆にそれを見つけないと眠れないときがある。それは見つかりづらいものではないが、無性に気になってしまうものだったりしまう。
『盗まれた手紙』の中ではそれで脅迫されたらどうしようというほどのものだった。それを考えて見つかるまで暮らしていたなんて尋常じゃない精神の持ち主なのではないのではないだろうか。
 ミステリーに出てくる人間なんて、人殺しが起きているにもかかわらず、意外と心を病む人間は少ない。それは、キャラクターだから、駒だからだ。駒は感情をほぼ捨てられている。必要なときだけしゃべり、そのときにあったことをいう。
 物語全体にも言える話かもしれないが、ミステリーの登場人物のホスピタリティは低い。
 物語の目的がただ一点謎を解くことだけだからだ。それに集約される。
 
 段々と話がズレてきた。
 
 僕がどんなこと言おうとと『盗まれた手紙』は一読してみる価値はあると思う。現代に通づるトリックである。小話としてよく出来上がっている。
 そして、もしあなたがなにかを隠すときにはそれを実行できるものだと思う。
 

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