「そのことについては以前にも触れたのでここでは省いておく」について(1) Pさん

 その著書において、以前詳述したことについて再度触れることは、煩雑になるが故に省くべきか否かについて。
 佐々木中は、その意図と、また程度においてはどうか知らないけれども、「重要な事であるからには、何度でも強調する」という立場を取っていた。
 それは無意識に繰り返すと言うことではなく、文脈上、また強調せざるをえない事についてそうすると言っているのではあるけれども、そこから僕も「それが既になされた事だとか、既に言われたことだったとしても、関係なく繰り返す」という立場を取っていた。
 小島信夫も、例えば晩年の「暮坂」と「小さな講演のあと」という短編において、これも意識してか意識せずにか知らないけれども、そして見た目にも明らかにこれ何も考えずに繰り返しているんでしょう、少なくとも小説として繰り返すべきだという意図的なものは完全に欠落していると思われる状態で、ある講演についての情景と文章について、まるまるそのまま繰り返して書いていて、それでその後に書かれた小説において、ちょうど折り返しの時点に差し掛かったときに、
「ここまで書いてきて、私は脂汗が出るほど焦り始めた。というのも、ここに書いたようなことは、すでに『暮坂』で書いていたことを思い出したからだ」
 と書き始めるのである。
 それからあまつさえ、
「もう私は開き直って、『暮坂』がその後どういう風に書き継がれているのか、ここに書き写そうと思う」
 などと言うのである。他人事。これ、ほんとに、二つ合わせて読んでみてほしいと思うほど、腹の底からフザけていて、僕は爆笑して余りにも美しいので泣いた。
 なので上の二つの引用めいたカッコ内は、ずいぶん前に読んだけれども覚えで書き写しているので、一字一句同じではないだろうけれどもそういう展開になっていたことだけは確かであると思う。
 ちなみに、僕が覚えで書き写すのであって正確に書き写さないのも、自分が覚えていないことについては自分の血肉になっていない事柄であって写して他人に伝える価値もないものと信じており、先に挙げた佐々木中や保坂和志のやり方を継いでいるのである。
 自分でも「しつこい」と思うけれども、この三者から受けた影響は、今になると恥ずかしいくらい愚直というか何の批判もなく受け入れているからお前自身は何も考えていないんじゃないかと思うほどだけれども、今焦って何かを剥がすように「別ルートから考えています」と言い張るのもやはりウソであるからには、それを隠すようにはしていない。
 今回何でこういう事を書き始めたのかといえば、渡辺一夫の『狂気について 渡辺一夫評論選』を松原礼二氏に勧められて読んでいたら、ラブレーの著書について、特に「テレームの僧院」について、翻訳者、研究家としてというのはあるけれども繰り返し書いていて、こちらも繰り返し読まなければならない所から、前に和辻哲郎を読んだときや今ソクラテス以前の哲学者の断片集を読む際に、読む側が繰り返しを煩雑だと思う隙間がないことや、性質上繰り返しが生まれることがやむを得ない著作集である以上、繰り返しを拒絶することや、「ここはもう読んだから」といって飛ばすことを許さないといった事を考えてのことであった。
 ドゥルーズも、『ディアローグ』において、「ここに繰り返し同じ話題が出てくるかも知れないが……」といった事を言っていた。繰り返しも含めてこの本の内容であるといったような事だった。
 僕は自分の読む姿勢を振り返ってそう思うけれども、果たして一回言われたくらいで完全に身にしみる事ってあるだろうか?
 それで職場でも他人に同じ事を何度でも聞くし、自分でメモしたことでも改めて人に聞くし、人に聞かれたら何度でも同じ事を説明するのである。繰り言なんて言うけれども、聞きたくないことを都合良く忘れてしまう脳のシステムはそれ自体ネガティブに働いているわけではなくポジティブに働いているのである。

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