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「それ」を言う、時、場所、誰が。

 今朝の川崎の一件について。というか、その後のことについて。
 事件の全容はこれから少なからず明らかにされていく部分もあるのでしょうが、秋葉原の一件を思い出す人も多いようです。僕もそうです。2008年にあるテレビ番組で姜尚中さんと爆笑問題の二人が鼎談した内容を、みなさんにも知っておいて欲しい、というよりも、いつか見てもらいたいと思います。

togetter.com 『「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい』という記事が話題に

川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい

コラムニスト 小田嶋隆さんのツイート

 下記は、著作権違反のままアップロードされた動画だと思いますので、ご容赦ください。
NHK爆問学問|爆笑問題のニッポンの教養 -愛の政治学入門 政治学 姜尚中-(2008年09月30日)

 2008年にNHKで放送された爆問学問という番組の中で、姜尚中さんが秋葉原の通り魔事件について同じような話をしています。その時「一人で死ねというふうにしか言えないような政治がもしあるとすれば、これは政治じゃないと思う」という話を姜尚中さんがされたことを覚えていました。

 リアルタイムでも見たのですが、半年ほど前にHDDレコーダーに入った古い映像を見直していたので、すぐに思い出しました。

 藤田さんというNPOの代表を務める方を知りません。が、そんなに間違ったことを言っているようには思えません。う〜ん、けど、ちょっと、と思うところはありますが。でも、姜尚中さんの方が正しく、綺麗にまとめているのですが、やっぱり「1人で死ね」は感情にあまりにも寄りすぎていると思います。秩序のある社会を目指す中で『「1人で死ね」と言わない』ことは一つの方法として正しいと思います。

 その上で。

 正論であったとしても、言葉や意志は「いつ、どこで、誰が」言うのかがとてもとても大切です。タイムマシーンがあったとして、140年くらい前の北海道に僕が行って、農学校の生徒たちに「少年よ大志を抱け!Boys be ambitious!」と右手で指差したとしても、その言葉は残りません(誰やねん、となる)。どんな名言も、金言も、「いつ、どこで、誰が」言うのかによってその意味が変わるのです。それどころか、この手のコラムニストに思わずゾッとしました。

 クリシェ化、常套句。

 僕が、クラーク博士よりも先に、数日先にクラーク博士の知らないところでそれを言っていたら、クラーク博士が言うべき時に言った言葉は農学校の生徒たちの胸に残ったでしょうか?「あ、あれ、この前聞いたぞ」というインパクトが、言葉の意味を打ち消してしまうと思えませんか?

 いつか、この手の話は議論されたらいいな、と思っていました。「1人で死ね、と言わない社会」って。でも、今、これほど酷いことが起きた直後にこの正論を叫ばれても、怒りや不安を抱えた私たちが「そうか、そうだな」と受け入れられるはずがない。むしろ「自分はこの正論に気づいてます」とアピールしているようにしか思えません。普段から「1人で死ね、と言わない社会」の実現を目指しているようには到底思えない。どうしたら「1人で死ね、と言わない社会」ができるのか考えているようには、到底思えない。浅はかに見えて、正直言って腹が立ちました。

 いくらか日が経ってからこの正論が改めて世に出ていたら、多くの人が目にして考えるチャンスがあったら、ほとんど表現的には不適切だと思いますが、PR的には効果が大きかったと思います。

 「ひどい。っていうか、何を言ったらいいのか分からない」とは、被害にあい、亡くなった児童と同じ小学6年生の息子の言葉です。それで、十分でしょう、今は。静かに、自分の胸の中で、これって何なのかを考えたい。

 残念なことに被害にあわれた方々、そして大切な人を失ったご家族や関係者がいることだけは事実で、加害者の動機や背景などはまったく今は分かりません。そうした中で、秋葉原の事件と照らし合わせることすら早計だと思います。

 あまり既成の何かを否定したり、批判をして自分の意見を通すことはPRとしては好みません。しかし「いつ、どこで、誰が」という点では大きな学びを得る教訓になる出来事なので、素早く書きました。

 最後になりますが、亡くなられたお二人にご冥福を祈ります。
 県民とか父とか、そういう共通点がどれほど意味があるのか分かりませんし、被害者や関係者の本意は想像するしかありませんが、その悔しさや悲しさは、より良い社会へと役立たせていただきます。

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