能舞台の引力と、黒装束の演奏者たち
■ Candlelight Concert
Candlelight Concertは世界100都市以上で開催されているコンサートで、クラシックやジャズだけでなく、映画サウンドトラックやゲームミュージックなど様々なジャンルの音楽が演奏されている。
筆者がこのコンサートを知ったのは、知人のInstagramの投稿だ。
その写真を見て、是非コンサートに足を運びたくなった。
世界観が想像しやすく、親しみやすい「久石譲の名曲集」のコンサートを予約した。
■ 大槻能楽堂
コンサート会場の大槻能楽堂は、過去に「ろうそく能」を鑑賞しに訪れたことがある。初めて鑑賞する人にも親しみやすいプログラムを提供している能楽堂、という印象がある。
19時15分開演だったので、18時に自身の仕事を終え20分で着物に着替え、自宅を飛び出して急いでタクシーを拾って向かった。
現地に到着したとき「本当にここであってますか?」とタクシー運転手さんに聞かれるほど、大槻能楽堂の外観はいかにもシアターっぽい。
■ 能舞台の引力
会場に入ると、そこはすでに幻想的な世界だった。
19時15分。開演を知らせるアナウンスが鳴った。
能舞台にキャンドルライト、そして西洋楽器の演奏。これから始まる世界観に胸を膨らませ、演奏者たちの入場を見守るなか、揚幕が開かれた。
黒装束に身を包んだバイオリニストたちが、現れた。
闇の向こうから静かに、役割を果たすためだけに歩みを進めるように、能舞台に向かっていく。
弦が音を奏で始めてすぐに、音の反響が、コンサートホールのそれとは違う、とすぐに気が付いた。
コンサートホールは音に包まれる感覚になるが、能舞台ではメロディーが拡散せず、舞台上に留まり続けて離れない。
観客たちの注意を飲み込むように、意識が黒装束のバイオリニストたちに引き寄せられていく。
■ 喪服のように黒いドレス
話が変わるが、筆者の母は山口百恵と同い年で、同氏のことを”百恵ちゃん”と呼ぶ。それを聞いて育った筆者も自然と、百恵ちゃんと呼んでしまう。
その百恵ちゃんがキャンディーズとレコード大賞を争った年があった。
キャンディーズの受賞決定を見届けて、紅白歌合戦に移動するためにレコ大会場を後にする背中を、「喪服のように黒いドレスで」と称した人がいたことを、ふと思い出していた。20年くらい前に、百恵ちゃんの特集か何かをTVで見ていた時だと思う。
その時から、「喪服のように黒い」がまるで「矜持を示す」の枕詞のように、強烈な表現として記憶に焼き付いている。
「喪服のように黒いドレス」はこちらのブログ写真が分かりやすい。
当時の衣装を見られるYouTubeもよければどうぞ。
■ 黒装束の演奏者
さて、そんなことを考えながら鑑賞しているうちに、全ての演目とアンコールが終了していた。
役割を果たした黒装束たちは、静かに、ふたたび闇の向こうへと消えていく。
ところで、能舞台と舞台袖を繋ぐ橋は、物理的・心的距離を表し、演目によってはこの世とあの世を繋ぐ橋を現すそうだ。
また、舞台進行の補助をする役割を黒衣(くろご)と呼ぶ。
■ 「喪服のように黒い」は「矜持を示す」の枕詞
筆者は、黒装束に身を包んで橋掛かりを渡ってくる演奏者たちを、黒衣のように見ていた。実際、黒衣に徹していただろうし、メインは音楽であることを心得ていたと思う。
能舞台上で、「見えない約束」の黒衣たちが奏でた音楽は、筆者の意識を強烈に引き付けた。まるで、ブラックホールだ。
そして、役割を終え、ただ静かに去る姿に黒衣の役割を重ね、あの世とこの世を繋ぐ舞台設定を通して得た連想が、「喪服のように黒いドレス」として、像を結ぶ。
筆者はそこに、「矜持」を見たのだと思う。
それは、演奏者たちがもともと持ち得ていたものでもあり、能舞台の設定として必然的な感覚でもあり、相互依存的に発生したエネルギーだったと感じている。
過去と現在のインスピレーションが立体的に像を結び、新しい感受性が開拓されたことは、偶然ではない気がしたので、ここに書き留めておきたい。
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