赤池きよし

1988年生まれ。建築設備関係の仕事をしながら興味のあることを記録する。

赤池きよし

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最近の記事

あそびについて

2023.12.5 昨日、仕事をあそんでるように楽しめている状態を「ワークプレイング」と呼ぶことにした。と書いたが、この『あそび』についてもう少し深掘りたい。 このあそびには、ハンドルのあそび、などの意味で使われるあそびも含まれている。 これはメカ的な話で余裕代、というような意味で使われる。 例えばギアとギアの噛み込む部分にもこのあそびがあって、この微妙な隙間に潤滑油やグリスが入り込んでスムーズにギアを連動させてくれる役割を持つ。このあそびが無くきっちりしすぎていると摩擦が

    • ワークプレイング

      2023.12.4 「仕事×あそび」が今年のキーワードっぽいなぁ、と年初めにふんわり思ってたらもう年末。 仕事とあそびの境界が曖昧に、ぐにゃあっとグラデーションするようにできないかなぁと日々妄想しております。 あそびとはいえ、ただ能天気に楽しいことだけをやる、ということではない。 仕事、という黙ってれば勝手にハードになりがち(一生懸命やってる人ほど)なものをいかに遊ぶか。あそびごころを入れられるか。 仕事を遊んでいるように楽しめている状態。 これを「ワークプレイング

      • 時をかける少年

        去年の年末にFacebookでポストしていたものをnoteに上げ忘れていたので今更ながら。 ------------------------------------------------- 子供が生まれて、もうすぐ一歳になる。 子供が一歳になるということは、一年という月日が流れたという疑いようのない事実があるのだが、僕に相対性理論が作用して、タイムラプスを見ているような日々だった。 子供を育てるという、多くの人が経験していることでも、やはり経験しないとわからないことばか

        • 贅沢なせめぎ合い

          1月に子ども(第一子)が生まれ、7月に転職をした。 メーカー畑とはいえ、取扱う機器も違ければ職種も違う。一つ一つ新しいニューロンをつなぐような日々だ。二十代半ばで転職した時と明らかに違うと感じるのは、そのニューロンの繋がるスピード。何度も同じことを経験してやっと少しできるようになる。このスピード感は思ってた以上に焦りを生む。 前職の仕事における判断力というものが、いかにその経験(約9年)からくるものだったのかということを痛感している。 「もっと早く慣れたい」「もっと早く

        あそびについて

          food loopコンポストクラブに参加!

          約1年前、友人が始めたことなどをきっかけにしてコンポストを始めてみた。 普段捨てる生ごみを基材の入ったコンポスト用の袋に入れていく。毎日ごみを捨てる代わりに入れては混ぜを2ヶ月ほど繰り返すのだが、びっくりするほどに燃えるごみが減って、生ごみってこんなに出してたんだ、、と気づく。 さらに不思議とコンポストは生ごみ特有の臭いがしない。これは微生物が生ごみを分解してくれているかららしい。熟成期間を経て堆肥が完成! ベランダで育てる植物に使い始めたのも束の間、あることに気づく。 「

          food loopコンポストクラブに参加!

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          日常的なことにふと、実感が湧く。 高い空を見上げて地面があること。 その地面を歩いていること。 歩いている、ということは 重力に耐えうる筋肉があること。 日常的なことを味わいなおす。 体の内側で、なにかを覆ってたものがジワッと溶けだす。 そこに大切なものの輪郭を見つけ、 溶けたものはどこかに吸収されていく。 日常的なことを味わいなおせるのは、 日常的なことを忘れている時があるからで、 忘れてしまうことを憂いつつも 一歩一歩を踏みしめては、 足の裏に感じる地面の重みや ゴ

          お子の誕生とあれこれ

          先日、我が家にお子(第一子)が誕生した。 コロナ禍で出産の立会いは禁止。産まれてからの面会時間は入院期間5日間のうちの30分のみ。別れが辛すぎてむしろ会いたくないと思えるほどの時間だが、産まれたその日に会いに行った。お子の小さい手に僕の指をギュッと握られたときは自然と涙がこぼれた。同じように涙した父はきっと多いことだろう。握られる指先に「涙腺緩みスイッチ」があって、お子は研ぎ澄まされた感性でそのスイッチを見つけ出し、ギュッと押す。すると父の目からポロッと涙がこぼれる仕組みに

          お子の誕生とあれこれ

          宇宙のお腹

          もうすぐ子供が生まれる。 自分が親になることはまだ想像ができない。 8ヶ月前、妻が今まであまり見たことのない微笑みを携えて何かを見せてきた。僕は妻の顔とそれを交互に見た。「マジで!」 非常に乏しい語彙で反応してしまったが、この時の反応は多分、何度やり直してもこうなる気がしてしまう。まだ確実ではないから近いうちに産婦人科に行くと妻は言った。蓋の開いた妊娠検査薬の箱には『99%以上の正確さ!』と書かれてある。意識したことのなかったこの数値を突然突きつけられ、ほぼ100やん。と思

          宇宙のお腹

          電力の切り替え

          温暖化の問題にはタイムリミットがある。 『2030年までに2010年と比較し排出する温室効果ガスを半分に、2050年までにゼロにできなければ、地球温暖化は不可逆的になる』と言われている。 「不可逆的」とは「元に戻れなくなる」ということだ。 異常気象が増え、農業や漁業などの一次産業の継続はますます困難になり、生態系の変動により世界的に食糧不足になる。 2050年といえば私は62歳、同世代の子どもたちは今の自分たちと同じ30歳くらいだ。そう考えると、もうすぐだと感じる。

          電力の切り替え

          風立ちぬ

          宮崎駿の「風立ちぬ」が金曜ロードショーで放送される。 風立ちぬといえば去年の挑戦を思い出すが、もう一年経ったのかと驚く。この挑戦で僕は風立ちぬという作品に強く魅了された。 https://note.com/kyc/n/naebb58b87209 宮崎駿が「自分の作品で初めて泣いた」と言ったその涙の理由を知りたかった。その想いで始めた風立ちぬへの挑戦だったが、あることをきっかけに堀越二郎(風立ちぬの主人公であり、実際にいた人物)とすれ違うことになる。 彼の「美しい飛行機を

          76年

          志樹逸馬(1917−1959)という人がいる。 13歳でハンセン病と診断され、亡くなる42歳まで療養所での生活を余儀なくされていた方だ。この方は紛れもなく詩人であるが、その詩が注目されたのは死後のことで、私自身、その存在を知ったのはここ最近だ。 ハンセン病といえば今となっては治療法も確立され、そこまで心配する病気ではなくなったが、当時は不治の病であり、伝染力が非常に高いというデマが流れたことで、ハンセン病患者は強烈な差別と偏見に晒されていたようだ。 人生の大半を療養所で過

          読むこと 書くこと

          読みはじめ、ほとんどの情報が頭に入ってこず、なんとなく朧げでモノクロだった景色が、あるとき突然色を鮮やかにまといだし、登場人物や言葉が生き生きと、その呼吸や汗ばむ姿すら見えてくるように動き出す瞬間がある。 小説の中で犬が高らかに遠吠えをする。ふと小説から目を外し、自分の部屋で窓の外を眺めている犬を一瞥する。うちの犬は他の犬の鳴き声が聞こえると何かしら反応を見せるが、今は反応していない。珍しいなと思ったのもつかの間、聞こえてきたその遠吠えは小説の中で、私にだけ聞こえていたもの

          読むこと 書くこと

          半年

          たまにガクッとモチベーションが落ちるような、どこの引き出しを開けても感受性が見つからないような、そんな感覚がある。これはたまたまというわけではなくて、3〜4ヶ月にいっぺんはそうなる事が最近わかってきていた。 「わかってきていた」というのは以前、突如襲ってくるモチベーション低下の原因を探るべく日々の自分の状態を記録していた時期がある。そのおかげで「3〜4ヶ月にいっぺん」ということがわかってきたのだ。 なにかきっかけがある訳でもない。原因もよくわからない。だけど「3〜4ヶ月に

          わんこ先生

          麦は生きている。非常に生きている。強く、というよりも、ただひたむきに生きている。 麦はひたむきに生きるということを教えてくれる。ご飯がお皿に盛られると飛び跳ねて喜び、ぼたぼたと口からこぼれる水も気にせず、散歩だよといえば笑顔で走り回り、帰路に気づくと少し寂しそうにする。 激動の日々に適応するため、どうやって生きていけばいいのかという処世術を至るところで目にする。成功者の動向に注目し、真似をし、生き延びる方法に頭を悩ませている。私もその一人だ。しかし、麦を見ていると「どうやっ

          わんこ先生

          自由意志の中で

          この目は 何を見よう この耳は 何を聞こう この鼻は 何を嗅ごう この口は 何を語ろう この手は 何に触れよう この足は 何処へ向かおう この知恵を 何に使おう この心を 何に注ごう 残りの時をわたしは どのように生きよう

          自由意志の中で

          遺書

          先日、遺書を書いた。 いつ死ぬかわからないからだ。「いつ死ぬかわからない」というのはとてもシンプルなことで事実だ。なるべく心の片隅に置きながら日常を送っているつもりだった。しかし、今このまま死んだならば、自分を愛してくれている人に無責任だと思った。「いってきます」や「おやすみ」という言葉がお互いの最後の会話かもしれない。もっと辛いのは、ヒドイ言葉を言い放ったのが最後かもしれない。残された人のことを思うと、その別れはとてもとても重たいと思う。であるならば、私がどういう思いで生き