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「花屋日記」49. モード界に一番近いバラ。

 花屋での最終日、私はたくさんのプレゼントを受け取った。スタッフからのメッセージカードやブーケ(花屋から花屋へ渡されるブーケなんて、実はめったにないことだ)、そしてセキュリティチームのモトヤさんがこっそり手配してくださったというホールケーキまで店舗に届けられた。元料理長ならではの、さすがのチョイスだった。
 常連だったシノダ様は店で一番大きなブーケを購入され、それを私に「プレゼント」と言ってくださった。店長は後ろでそれを見て見ぬ振りをしていた。もしかしたらこちらの裏事情をいつからか察していたのかもしれない。
 
 私は最初から最後まで、名もない花屋のスタッフに過ぎなかった。それでもこんな大勢の人に見送られ、誕生日と結婚式を一度に祝ってもらっているような、信じられない一日になった。
 かつてモード誌を辞めたとき、
「君の周りにいる人間はみんないなくなるよ。もう利用価値がないからね」
と意地悪な忠告してくれた人がいたが、今日私に会いにきてくれた人たちは「利用価値」なんて関係なく、私のそばにいてくれた。そのことが単純に嬉しかった。

 その晩、私は一人で店を閉めた。そんな風に終わりたくて、店長にお願いしたのだ。
 私は桶の中の花を包んで冷蔵庫に仕舞うため、いつものように古新聞を取り出す。その中にまたファッション紙が混ざっており、なんだか心がちくりとした。いやになってしまう。いつまでもモードにつきまとわれ、こんな形でまた引き戻されてしまうなんて。
「あんたたちさえいなければね…」
ランウェイを闊歩するモデルたちの写真を見ながら、私はそう独りごちた。

 そして新聞の一枚を斜め半分に折りたたみ、手早くバラを包む。この芍薬咲きの気品溢れるモダンローズは「イブピアジェ」。老舗ジュエラー、ピアジェの4代目会長が手がけたことで彼の名前がつけられたバラだった。ファッションと花が決してかけ離れたものではないことを、そのバラの名が物語っている。

 そうだね、私は花から逃げるんじゃない。両方に立ち向かうんだ、今から。
私はなにも捨てない。置き去りにしない。過去にも戻らない。すべてを抱いて、次の場所へ向かうだけ。ここで得たものをなにも失わないでいよう。

 私は見慣れた店内をもう一度見回し、目に焼きつけ、一息おいてから店の電気を落とした。

 鬱になったことも「都落ち」したことも、ずっと人生のデッドエンドのように思っていた。自分で自分を落伍者のように思い込んでいた。でも、あの経験がなかったら私は、この場所に辿りつけなかっただろう。花が美しいことさえ、知らずにいただろう。
 時が過ぎてしまえば、いろんなことが「大したこと」ではなかったと思える。東京も、モード誌も、一度手にした権力や肩書きも。
 なぜ私はあの環境を、世界のすべてだと錯覚してしまったのか。まったくそれは正しいことではなかったのに。

 私がこの店で働いたことは、そして今夜辞めることは、逃避でも気まぐれでもない。明日へ向かうための一つの準備だ。私はこれからも何度だって学び直す。そんなふうに生きるべきだと思うから。

 古新聞に包まれた「イブピアジェ」が台車の中で揺れる。
その甘い香りはこれまでで一番、私の心に深くしみた。

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