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「花が嫌いな人」でした。

花好きの祖母は、今日も庭の紫陽花を持って近所に出かけてしまった。
私は長い間、花なんて嫌いだった。


母が花を育てるのが好きな人だったので、私は幼稚園の頃から「パンジーが咲いたから幼稚園に持って行きなさい」とか「庭のチューリップをお友達の家に持って行ったら?」とか言われて、濡れたティッシュとアルミホイルで茎を包んだ花束をよく持たされた。

そうやって子供が花束を持っていったって、みんながみんな喜ぶわけじゃない。そんなナマモノをいきなり渡されて困り顔をされたり、迷惑そうな態度を取られることもしょっちゅうで、私はだんだん「花を持たされること」も「母が花を全面的に信じちゃってること」も嫌になってしまった。

「今年の寄せ植えはうまくいったと思わない?」とか「月下美人が咲いたから見て」とか言われても、反抗期の男子高生みたいに「うるせえな」と思っていたし、それが美しいものだなんて、私は一つも信じられなかった。

兄だけが「でも花が咲いて、それを自分の好きな人に見せたいっていうのはすごく原始的な愛情の形なんじゃない?」と私をたしなめた(子供の頃、犬の散歩に出かけると、道で咲いているかわいい雑草を「お母さんのために摘んで帰ろう」と彼はよく言っていた)。


あるときから祖母に痴呆が始まり、花壇の花を切って「それを誰かにあげようと思って」道端に立つようになった。母はさすがに「そんなことは通行人たちに迷惑だからやめてちょうだい」と怒って、祖母を無理やり連れて帰っていたが、私はその光景を見るたびに「…ああ、きっと祖母も母に、同じように花を持たせていたんだな」と気づいた。これはもう、何代も前から続いている一種の「信仰」なんだな、と。


「自分から本当に興味が持てるまで、絶対に花には関わらない」と決めていたのは、自分なりの意地だったと思う。これだけまわりが「花、花」と言っている中でも、私は自分で選びたかった。ちゃんとその美を自力で発見したかったのだ。
だからたぶん「なぜ花を始めたんですか?」「花ってどういうものなんですか?」みたいなことに今、私は過剰なくらい興味を抱いているんだと思う。みんな違う答えを持っているし、花に対する解釈も様々だ。そのいろんな花への思いを知ることが、「アンチ花」だった長年の私の疑問や葛藤を解いてくれている。

花を通して知り合った人たちはみんな「私の知りたかった答え」を持っている特別な存在で、私はそのことを、地元に戻ってくるたびに思い出す。


今日も母は「庭の紫陽花、見てくれた?」といちいち言ってきて「相変わらずうるさいなあ」と思った。でもそれを「後で生けるから」と言う余裕が今はある。そしてどれだけハサミを隠しても、庭の花を切って外に出かけてしまう祖母のことも「まあ、喜んでくれる人もいるかもしれないし」と諦め半分、それを認められるようになった。

ダイニングに花を飾ると、ごはんを食べながら兄が「…ああ、なんか生き物の気配を感じる」と言ったりする。私はそれだけで嬉しくて「花が家の中にあるっていいよね」ってやっと心から思えるのだった。

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