これまでの生き方とこれからの生き方、の話。(1)
ここ最近しばらく、ずっとこれからの生き方をどうしようか、考えていました。
ずっとモヤモヤしてて、まぁ、まだ今でもモヤモヤしているんだけど、週末にまとまった時間考えて、書き出して、整理して、まだまだ抽象的だけど、この3つを当面のテーマとしていこうと思いました。
「自分はもっとできる」と信じ続けること。
「偶然の出会い」を引き寄せること。
「目の前のことに没入」してNo.1の事を成すこと。
書かずにうやむやにして溶けていくのが嫌だったので、荒削りでも今考えていることを残しておきたいと思います。
「自分はもっとできる」と信じ続けること。
どう表現すれば正しく伝わるのか悩むんだけど、僕は自分にめちゃめちゃ自信があって、その一方でめちゃめちゃ自信がない人間です。
例えば、今だと「これからのメドレーの採用をもっと良くできる!持続可能な発展を実現できる」っていう自信があって、これは他の人よりもうまくできる強烈な自信がある。
加えて、ちゃんとニュアンス伝わって欲しいんだけど、他の会社の採用を同時に50社くらい良くし続けてみせろ、って言われてもできる自信があります。そのくらい企画と仕組み化について考え抜いてきたし、1社1社事情が違っても、アジャストして軌道に載せる方法を磨き上げてきた。(酔っ払って記憶がない時間帯を除いては)24時間考えてきたし夢に出てくることなんて当たり前でした。
このくらい世の経営者は当たり前にやっていると思うんだけど、僕は採用や広報に特化して考えてきたわけで、領域が狭い分このくらいできるって言えないと釣り合いもしないと思うわけです。
15年以上前から続くコンプレックス
でも一方で、同い年の経営者みたいにみんなが使うようなサービスや事業を立ち上げて、伸ばしていけるかというと、今の所その経験もないし自信もないわけです。アカツキ塩田、エウレカ赤坂、Loco篠塚、メルカリ濱田・村田、ティルス大冨、ミラティブ赤川、Retty武田......83会で定期的に集まる経営者の同期は他にもたくさんいて、挙げればキリがない粒ぞろい。僕自身、クックパッドにいてグロースハックの手法とかを駆使して有料会員を伸ばした自負はあるけど、0→1ではないわけです。
僕の原体験は、一橋の1年生の時にやった「Act」という授業。1年生がチームを組んで、「身の回りにある課題をビジネスで解決しよう」というお題で事業構想を立ち上げるものでした。
周りのみんながどんどんアイデアや企画案を作る中、真新しいことを一つも考えられない自分。惨めでした。「商売がしたい」「商いを学びたい」「世界を股にかける商人になりたい」と思って勇んで一橋の商学部に入ったのに、発想力なんてものは皆無で、ただみんなが考えることに頷くしかできなかった自分、、、
みなさんがこれを読んでどのくらい意外かはわかりませんが、今でこそ自分の発想とかアイデア、企画で仕事をしていますが、そんなことが嘘のように当時はなんのアイデアも浮かばない人間でした。
それがコンプレックスで、「アイデアがある人と一緒に仕事をして、補完関係になれれば良いのではないか」という思いから、1年生の終わりくらいに公認会計士の資格を目指すようになります。もともとは税理士になろうと思っていたんですが、サークルの先輩から「公認会計士になれば税理士も付いてくる」と教わり、会計士の方を目指すようになったのです。
大学1年生でサークルを立ち上げ、1ヶ月で100人に
保守的な人生を歩み始めましたが、どこかで諦めきれず、1年生の時に「Fortissimo」というサークルを立ち上げて代表をやりました。ハウンドドックかよ、という感じではありますが、当時は「もっと強く、上がっていく感じ」みたいなのがカッコいいと本気で思っていました。
・大学1年生だけが入れるコミュニティ(排他性・反逆性)
・メアドだけでゆるく繋がるコミュニティ(性善説・自由競争)
・どの大学生でも加入可能なコミュニティ(オープン・公平)
・誰でもイベントを登録でき誰でも参加可能なコミュニティ(オープン・公平)
今考えるとインターネットを活用すればもっとうまく運営できたのかもしれません。でも当時は「メーリングリスト」と「ジオシティーズ」をどれだけ駆使して管理できるか、という状況。エントリーコストが低く真新しかったので、立ち上げ直後に人は爆増しましたが、3ヶ月も持たずに解散。僕も過呼吸で運ばれる羽目になったのです。
その後は弁護士や会計士を目指す人が中心となって、週1回スポーツや飲み会で息抜きをするインカレサークル「D.D.C」に入り、その2年後、3年生の時に代表をやることになります。
「F」というサークルであらためて自分の立ち位置を知る
引退後、4年生になって「F」というインカレサークルに出会います。
「F」っていうサークルは、「想いをカタチに」っていうのをスローガンにしていたサークルでした。田中孝治、田中哲、中島知秀、渡部ゆう子っていう同い年の4人が立ち上げて大きくしてきたサークル。
「今まで主役じゃなかった人でも、主役になれるよね」という話で、自分の胸の奥にしまっていた想いを、みんなの力でカタチにしながら、そのカタチになったものをみんなで楽しもう、という、今考えてもすごく良くできていたコンセプトでした。
入ったきっかけは忘れたけど、入った直後に僕もプロジェクトオーナーになって「サンタ狩り」っていう、「秋葉原の街に100人集めて、鬼ごっこと宝探しを組み合わせた企画をやったら楽しいんじゃないか」っていう企画をやりました。なかし(=中島)がサポーター役になり、8人のプロジェクトチームで企画をやりきって、すごく充実感があったのを覚えている。
でもこの企画も、自分一人で全部発案して生み出したというより、プロジェクトリーダーとしての動きがほとんどだったように思うんですよね。自分は新しいコンセプトを受け入れて、周りを巻き込んで、それをプロジェクトリーダーとしてカタチにしていくのが得意なじゃないか、とその時感じました。
その1年後くらいに170人でキャンプ場を貸し切って1泊2日して、夜は一夜にして17個の屋台を作って巨大なキャンプファイヤーを作り、次の日はみんなで竹筒をつなぎ合わせてキャンプ場の上から下まで続く流しそうめんを作る、みたいな突拍子もない企画をやりました。
その時も、アイデアを出すのはいつも僕以外の誰か、で、聞いた瞬間は「そんなのありえないだろ」って毎回思う。
「キャンプ場に屋台を20個くらい作って、その中心に何メートルもあるキャンプファイヤーを設営しよう」って聞いた時はその意味すらわからなかったけど、骨組みがどうとか、キャンプ場のおっさんと仲良くなってなんとかしてくるとか、なんかその時は佐野っていう野人みたいな後輩がいて、そいつが本当になにもかもできるようにしてきちゃった。
(のちにそいつと一緒に住むことになるのだが、そいつが留年しかけることになり、そいつの実家の奈良まで夜行バスでおしかけ、警察官のお父様に「どうか息子さんを僕たちにおあずけください。必ず卒業させます」と土下座しに行ったことも今では良き思い出)
そんなこんなで、運営も35人と大所帯になった時、僕は「アイデアを作るのは誰かに任せて、自分はこのチームをまとめる軍曹になろう」と思うようになるのです。大学1年生のactの時に思ったコンプレックスを引きずった結果ではあるけど、でもアイデアマンがいるだけでは「想いをカタチ」にすることはできないわけです。まとめ上げる人がいて初めて、想いはカタチになる。大きい想いほどに、その存在は重要になると気づいたのです。
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とここまで書いていて思ったのですが、このペースで回顧録を書いていたら、永久に終わらない、少なくともこのブログのボリュームでは終わらないと思ったので、少しずつ何回かに分けて書いていこうと思います。。。
次回は社会人編、今まであまりみんなに言ったことのない監査法人時代の話をしようと思います。
(つづく)
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