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評⑲天使館ポスト舞踏『牢獄天使城でカリオストロが見た夢』世田パブ5000円

 舞踏だ。正直よくわからん。でも、金払って観た。わかる範囲で書く。
 笠井叡(あきら)新作 天使館ポスト舞踏公演『牢獄天使城でカリオストロが見た夢――天使館を通り過ぎ、遠く離れていったダンサーたちが今此処に――』@世田谷パブリックシアター。前売A席5000円、B席4000円等。3/3~3/6、4回。第1幕55分、休憩15分、第2幕45分。

舞台は言葉(あるいは台詞)と身体の関係(性)に呻吟する

 ……いや、金払っただけでもなく、書こうと思うのは、演劇をある程度観てくると、何十年も続けてきた人や集団はおそらくどんなジャンルにせよ(新劇の劇団であるにせよ)、言葉(あるいは台詞)と身体の関係(性)について考え抜き、正解はないにしても、自分たちなりの方向性を出そうと苦心惨憺してきた様が、だんだん伝わってくる気がするからでもある。

 新劇というのが、ひとつの指標としてアングラ前後からターゲットとなり、多分、それに代わるほどターゲットになるジャンルは、まだ、ない。文学作品を戯曲にすればいいのか、それは舞台でやる意味はどれくらいあるのか、戯曲や台詞を重視し過ぎて、役者やその身体はどこにいったのか、作家や演出家が偉いのか、的な、多分(間違えているかもしれない)。それは新劇の人たちも実のところぶつかっているはずの課題である。
 一朝一夕にはできないから、20代、30代である程度選んだ道の中でもがき続ける創作者たちなのだと思う。

 言葉(あるいは台詞)と身体の関係(性)に呻吟する、し続ける、それが舞台なのかもしれない。

 ……と、先に抽象的な結論を書いてしまった。
  サーチン「(略)おれ、嫌になっちまったんだよ、人間の言葉が何もかも……(略)言葉という言葉を……たぶん千回は聞いたなあ……」(ゴーリキー『どん底』(安達紀子訳、群像社、2019)第一幕17p

脳みその中にたくさんの言葉?

 思うに、舞台上の台詞を厭う人たちは、既に脳みその中にたくさんの言葉詰まっていて「もういい! こっちにはいっぱいあるから、いい!」と感じるのかもしれない。外から与えられる台詞でなく、自分たちの世界を、あるいは観客たちの世界を自由に作ってみたいかもしれない。言葉が詰まっていて機関銃のように乱射してくる野田秀樹もいるが。

自分の脳みそが幸せそうに踊って舞っていた

 ああ、また長引いた。この後は短く書く。
 で、この舞台のイメージは、老いと私の脳みそであった。
 老いについては、70歳を超えて舞い続けた笠井叡に集約されよう。
 私の脳みそは、そう、最初に多くの人々が舞踏を見せた。あえてそろえていないのか、微妙にずれながら、飛翔する感。ああ、なんだか楽しいなと思ったのだ。バレエみたいに揃う美しさと異なり。なんだか、自由に飛び回ってるなあ(しかし即興ではない)。なんだか自分の脳みその中で踊っているようあ。いいなあ、自分の脳みそ、自由に勝手に踊ってしまえ
 ……と思ってしまったので、その後はストーリーはどうでもよく(すみません)、彼ら彼女らが踊れば踊るほど自分の脳みそが軽やかになっていくようでうれしかったのだ。その後、ひとりひとりの舞踏があってももはや脳みそは難しいことを考えようとせず、よくわからないが、受け入れた。ようだ。

 その日その時。自分にとって。
 少なくとも、映像では伝わらない、舞台でしか伝わらないものを経験した。

 シュタイナーとか、オリュトミーとか。

 カラダの中でいろいろ考えを巡らしている時、
 そのコトバは外にいる人間には聞こえない。
 (略)
 目の前にいる人間に対して
 「こいつはこの世に、いない方がいいのではないか?」
 という思考内容がそのまま外に聞こえるならば、
 もはや会話の必要性はなくなる。
 しかし、実際、そのようなカラダ内部のコトバの「完全な公開性」によて
 人間関係が成り立っている世界があるとするならば、
 それは死者たちの世界なのではないか。
 (略)
 ダンスにおいて「動き」とは、公開された人間内部の「声」である。
 だから皆、ダンスを観る。
 ダンスを感じようとする。 

『牢獄天使城でカリオストロが見た夢――天使館を通り過ぎ、遠く離れていったダンサーたちが今此処に――』
公演パンフレットより抜粋

 


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