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親権者になれないと子に会えないという言説が、法的に誤っていること

 「親権者になれないと、子と会うことができなくなるのではないかという不安から、親権争いを熾烈にさせる」という見解がある。しかし、親権と面会は別の問題である。
 現行法のもと、親権がなくても子ども中心の面会交流を重ねている家族は少なくない。最たるものが事実婚の家族である。そして、父母が不仲であっても、子どものためになると裁判所が判断すれば、面会交流の審判が下される(民法766条)。その運用は、原則実施論とも呼ばれるほど積極的であり、行き過ぎていたとの反省から、子どもの利益を第一にして、「ニュートラルフラット」という、原則をつけない方針に変わったという経緯がある。

 親権者になれないと子に会えないという言説が、法的に誤りであることは、国の公式な見解でもある。2023年11月16日の参議委員会の法務委員会において、仁比聡平議員の質疑に対して、竹内努民事局長は、「別居親が離婚等にともなって離れて暮らすことになった子と交流することは、親権の効果そのものではなく、別居親の親権の有無の問題と親子交流の頻度や方法をどのように定めるかといった問題は別の問題だ」と答えている。

 統計上も、夫婦関係調整調停が大部分を占める一般調停事件の件数は減少傾向にあり、子どもの紛争で増えているのは、面会交流などの子の監護に関する紛争である。調停前置主義のもと、真の親権争いは別居直後の監護者指定と子の引渡しの審判で争われており、単独親権制度だから親権争いが熾烈になっているというのは事実誤認である。
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 この点に関して、父母双方が子の親権者になることを希望し対立が生じた場合に「監護実績を作るために、協議や合意のないまま子との同居を確保し、別居親に会わせない、面会交流(親子交流)を著しく制限するといった事態が生じる」という指摘がされることもあるが、別稿で述べたとおり、これも誤解である。

 父母の葛藤に直面して子が辛い思いをするという指摘をするのであれば、離婚後よりも、別居直前の状況に思いをいたすべきである。父母の葛藤は夫婦関係が破綻に至る過程で始まり、子はそのときから辛いのだ。共同親権になったら父母間の関係が良好になるわけではない。葛藤の末、関係が破綻し、離婚に至った父母の葛藤を、法の力で低下させるすべはない。現に続く葛藤を「ない」と無視して父母に親権等の「共同」行使で接触させるのは欺瞞だし、それで子は一層苦しめられる。効果的な「親教育」も実証されておらず、DV被害者に対する圧力にしかならないことが指摘されている。父母の真摯な同意のない場合に共同親権を強制すれば、別居親が同居親の育児に介入したり、無理な面会を要求したりすることが容易に推測できる。離婚時に親権者を一方に定めなければ、父母の対立は離婚後も続く。子が成人するまで父母の葛藤対立が続き、子はそれから逃れられなくなるだろう。

 共同親権導入の根拠として、「養育費の支払いをしない親」がとりあげられることもあるが、親権を与えたら、もしくは、面会を促進したら養育費の支払いが進むという因果関係はない。関係良好な家族では、面会ができるし、養育費が支払われるというだけである。養育費の支払いが少ないのは、法律に責任が書き込まれていないからではなく、確実な回収に国が腰を上げないことによる。現行法のもとでも養育費の支払い義務があるにもかかわらず、それを果たさない親に、親権をもたせることの弊害の方が大きいであろう。

 ここまでで述べた共同親権を必要とする理由は、いずれも実情に基づかない、妄想ともいうべき認識である。最後に、「DV・暴力への配慮があるから共同親権にしても良い」という見解について述べる。DVや虐待の加害者は、離婚後も配偶者への関係に執着する。その方法として司法が利用されることがある。具体的には、「片親疎外」とか「フレンドリーペアレント(友好的な親)ルール」など、子を守る母親を貶める不公正な理論を駆使して、離婚後共同親権を獲得しようとする。こうした有害な親の関わりから、離婚後共同の先進国は、被害親子を守れなかった。裏返せば、「DV・暴力への配慮」といいつつ、上記のような、事実と異なる妄想を根拠にして、離婚後共同親権を導入すれば、総論的な「DV・暴力への配慮」を唱えたところで被害親子は守れないのである。
                                以上

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