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震災から10年 1F吉田昌郎所長を偲ぶ思い

おはようございます。代表のしばはしです。りむすびの活動とは別の雑記です。

今日で震災から10年。当時私は原子力・電力業界にいたため、毎年、この日が近くなると福島第一原子力発電所(1F)の事故の悪夢が胸を突き刺すように蘇り、当日は大切な方を偲ぶ思いで過ごす日となります。

被災者の方々へお悔やみを申し上げるとともに、このnoteでは1Fや電力業界側の目線で思いを綴ります。


私は1996年から電気事業連合会という電力各社による任意団体につとめており、広報部、原子力部を経て、震災当時は会長役員秘書をしていました。

当日は息子の習い事のため午後休暇をとり、震災が起きたのは保育園にお迎えに行った時。息子のそばにいられたこと、自宅の近くにいたことは我が家にとっては不幸中の幸いでした。

余震が続くなか、時間が立つに連れ、津波、1Fがただならぬ状況に。ただただテレビで見守るだけの状況。東京大手町の職場では帰れない人が続出し、未曾有の事故対応で役員、原子力、広報が対応に追われ、翌日から職場付近に寝泊まりの日が始まりました。我々秘書は後方支援でしたが、土日出勤にも追われ息つく間もない状況でした。

職場をともにしてきた東電の人たちが計画停電、原子力対応に終われ疲弊していく様子を見守りながら、1Fがメルトダウンしないことを祈っていましたが、あのような事態に。
これまで「原子力は二酸化炭素を出さない環境に優しい発電方法」だと長年訴求してきた信念が音を立てて崩れていく無力さを感じました。


1Fの吉田昌郎所長。
原子力部に在籍していた際に大変お世話になった上司。マークさんと呼ばれ親しまれていました。
ニュースでよく見かけるヘリコプターから放水するしないのやりとりのとおり、べらんめぇ口調でありながらも優しさに溢れて頼りがいのある、まさに親分肌で面倒見が良く、上司も部下も同僚も誰もがマークさんのことを頼りにしていました。
東電本店側の役員もまた大変お世話になった上司でした。

時を経て、マークさんがご病気で倒れられ、電力各社の原子力の仲間たちでマークさんを励ましのメッセージを送るなどしながら、何度かマークさんともメールでやりとりができました。いつか収束したら必ずまたみんなで飲もうと。
回復された時もありましたが、ふたたびご病気に。

2013年7月、マークさんは亡くなられました。マークさんを囲んで激励したかった願いは叶わぬままに。1Fのその後を見届けられなかったマークさん無念だったですよね。

2016年だったか1Fの視察に行った時には、免震重要棟の緊急時対策室にマークさんの席が残っていました。あの場であの非常事態の中指揮をされていたテレビ越しで見たマークさんの様子が重なりました。

私たち仲間の中でマークさんはずっとずっと生きています。3月11日になるとみな思い思いに「マークさんに会いたかったな」って。

映画「fukushima50」。1年前に映画館で渡辺謙さんを通してマークさんが蘇ってきました。明晩はテレビで放送されるようですね。

私は電力業界を離れ、原子力の是非には答えがありません。ただ、これまで生活に必要不可欠なインフラである電力供給を支えてこられたお仲間をリスペクトしています。

3月11日、マークさんを偲ぶ思いを込めて。


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