日本人はなぜ靴を脱ぐのかの話。
日本人って、靴を脱ぎますよね。普通に。
でも、その「普通」ってなんでかなーと。そういう話。
天候と家の造り
日本って、雨が多いです。昔はアスファルト舗装された道なんてないから、足元は泥だらけになっちゃう。
そして、家は木でできていて、部屋には畳が敷かれています。
うん、汚れちゃうね。
だから履物を脱ぐんですね。そりゃそうだ。
「穢れ」の概念
でも、もっと深く考えてみると、
日本の「神道」に、「穢れ」という重要な概念がありまして。
要は、「モノ」が汚れている状態。なんですけど、
何を以て「汚れている状態」とするか、というと、
本来「ソト(ウチ)」にあるものが「ウチ(ソト)」にある状態。
を、汚れている状態=穢れというそうです。
(違ってたらごめんね。テヘペロ)
つまり、
「ちょ、なんでここにあんの?!怒」
という状態が「穢れ」なんですね。
おもちゃ自体は「穢れ」ではありません。
でも、それが本来「在るべき場所」のおもちゃ箱ではなく、外に出しっぱなし、床に散らばっている状態であれば、それは「穢れ」なんですね。
だから、お片付けしなさいって怒られるの。おかあさんに。
(ちょっと違う?ごめんね。)
その「穢れ」を靴の件でいうと、
「土」自体は「穢れ」じゃないんですよね。むしろ豊穣などの信仰の対象にもなるくらいだし。
でも、その土が家の中に入ったら。
その土がベッドのシーツの上にあったら。
それは本来「そこに在るべきでは無いもの」なので、「穢れ」になるんですよ。
「土は汚いなー」じゃなくて、
「土がこんなところにある、その状態が汚いなー」
という価値観です。
だから、靴を脱ぐんですね。「ソト」のものを「ウチ」に入れないように。
「ソト」と「ウチ」
日本人の線引き体質は、昔っからDNAに組み込まれていたのかもです。
特に「場所」。
家はもちろん、神社やお寺、お店など、あらゆるものに、明確な「境界線」があります。
門とか、鳥居とかもそうね。
そして、その「境界線」は心の中にもあるみたい。
「ホンネ」と「タテマエ」じゃないですけど、「ソト」向けのコトバと「ウチ」向けのコトバが違ったりとかもする。
(どちらも「そこ」では「真実」。)
他にも、「自分の心」と、「相手の心」には、明確な境界線かあるんだから、あんまりズカズカ心の中に土足で入ってこられると、それは「穢れ」でしかないんですよね。
本来「ココ」にないハズの、押し付けがましい価値観とかぶつけられると拒否反応出ちゃう。
「死」や「病気」
面白いのが、「死」や「病気」の価値観にも、このウチとソトの価値観が反映されていること。
つまり、「死」や「病気」そのものは別に不浄でもなんでもないんですよ。
でも、それらが「家のナカ」に入ってくるのは「穢れ」。
だから、お葬式の帰り、自分の家に着いたら、清め塩で身を清めて、「穢れ」を払ってから家に入る。
「死」が不浄なら、死体に向かって振り塩する文化になっているハズだもんね。でもそうじゃないのは「死」自体は不浄ではないから。
つまり、日本古来の価値観では、あらゆる物事、事象の全てはあくまで中立。ニュートラルなの。
それが「どこに在るか」だけが重要。
ある一つのナニカに対して、「その存在そのものが汚い」という価値観が存在しない。
これ、本当に面白い価値観です。
新しい価値観を歓迎しない
モノもヒトも、在るべき場所に在るかどうか、だけが判断材料であり、それそのものだけで価値判断はしない。という文化は、それはそれでとても素晴らしいと思います。
ある意味、「受け入れ易い」、「受け入れられ易い」社会。
つまり、『「自分(ウチ)」には関係ない「世間(ソト)」のことなんだったら、別にそれはそれでいいんじゃない?(適当)』という価値観。
それ自体が良いか悪いか自体は別に関係なくて、それが「他人事」という「ソト」にあれば別に構わない。ということです。
でも、この一見「マイノリティ」に優しそうな文化、価値観も、
それが「自分事(ウチ)」になれば途端に話が変わります。
自分のナカにある価値観を変えないといけない、
これまでの生活を変えないといけない、
そんな、「自分」に影響してしまう事象については、徹底的に「反対」するのがこの文化。
全然優しくないじゃんね。実は。
だって、「ウチ」と「ソト」には境界線があるから。
人々は、ソトから染み込んでくるものを、「穢れ」として、徹底的に拒否します。
前述の通り、「それ自体」が正しいか誤りかは関係なくて、
それが正義か悪かも関係ない。
そういう価値観。
対処の仕方
さて、そういう人に、どうやって新しい価値観をぶつけて、認めてもらいますかね?
「いかにこれが正しいか」というアプローチは意味を持ちません。
だって正しいか正しくないかは「穢れ」に対する拒否反応とは関係ないから。
結局、どうにかして「自分事」としてもらうしかないですね。
実際に「経験」して、「自分事」にしてもらうしかない。
これは、新しいサービスや商品、価値観を提案するあらゆるビジネスに関係するのかなー。
海外よりも日本は「実際に経験してもらう」アプローチが響くのかも。
なんだか、靴を脱ぐ脱がないの話からずいぶん膨らみました。
人と向き合って話すときは、「自分が靴を脱いでいる状態であること」をいかに伝えるか、が大切なのかな。
難しいですけど意識するようにしましょうかね。
おわり
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