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サラリーマンと家族と逃げ道とドリナ(四十歳紀行 プロローグ)

緑色に湧き立つドリナの水量が、一見出口もないような切り立った山壁からどっとくり出すあたり。そこに、均斉のとれた大きな石の橋が、ゆるやかに弧を描いた十一のアーチに支えられて、かかっている。いうなればこの橋を基線として、起伏の多い盆地が、扇状にひろがっているのだ。
(イヴォ・アンドリッチ著 松谷健二訳『ドリナの橋』)

2017年11月。一般企業に12年働いているしがないの40歳サラリーマン。完済まで彼方なるローンの残る埼玉の自宅には少しだけ怖い妻がいて、口を開いては偉大な父に対してデブと罵る少しだけ生意気な年長の長男とイヤイヤ期後期を少しだけ奔放に過ごす3歳の次男がいる。いつも埼玉の虚空を見上げてうめいていた。旅がしたい。しかし今の私は自由な旅なんぞできる身分ではなのだと。東武線に乗って鬼怒川温泉に行ければ御の字だと。

しかるに、今、私はボスニア・ヘルツェゴヴィナのヴィシェグラードにいる。片田舎の小さな町を流れるドリナ川に架かる、白く美しいソコルル・メフメト・パシャ橋(メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋)のカピヤと呼ばれる橋の真ん中にある腰掛けに一人座っている。人通りはほとんどない。たまに通る車の音。教会の鐘の音。川の流れる音。補修だろう。均整に切り揃えた真っ白な新しい石をカンカンと橋の路面に打ち付ける金槌の音。上流側の山壁は傾いている晩秋の弱い夕日を隠している。ひんやりとした空気の中で、私は橋を起点にして広がる静かな町並みを眺めながら逡巡する。この美しい橋の長く悲しい歴史はとりあえず脇に置いておくとして、家に帰ったら子供たちはとりあえずお土産に買ったおもちゃでごまかすとして、 2週間もの間一人でのら家事を押し付けた妻をいかにして懐柔したらよいのか……。

勤続10年により、10日間のリフレッシュ休暇が付与されていた。土日を含めると16日間の休暇。大学を卒業してから、最も長い休みである。腰に手を置きグビリとリゲインを一気飲みしては、「24時間戦えますか」とジャパニーズビジネスマンとしての社会人人生を猛スピードで走り続けた戦士が羽を休め、命の洗濯をするための休みだ。もう疲労困憊。

嘘である。セルフブランディングなどと称して粉飾に満ちた経歴を掲げて、大言壮語する者の真似をしてみた。リゲインの代わりにデカビタCをちびちび飲んで、仕事で終電を逃したことは社会人人生で片手で収まるほど。毎日だいたい8時間程度クルックーと周りと平和共存するためにハト派サラリーマン人生をぶらり旅してきた私に、今更リフレッシュする必要があろうか。「そんなことないよ」という声を大いに期待して、「ただ在職が長いだけでリフレッシュするための休暇を取得するのは甚だ恐縮だ」と謙遜してたところ、妻からは「そうだね。必要なのはリフレッシュ休暇ではなく、ストレス休暇だね」と言われる。しかし、リフレッシュ休暇は会社の制度なので、どんなに鼻で笑われようと拝受する。

蛇足。私には20分差で生まれた双子の兄がいる。20分の違いだけで末っ子としての立場を謳歌し、何事にも根気なく不真面目な私を背に、兄は真逆で真面目かつ飽くなき努力型の人間だ。強気を助け弱きを挫く私に対して、兄は弱きを助け強気を挫く気概のある人物でもある。体型も最近までは真逆であった。中背にもかかわらず、もやしと形容されるほどの虚弱体型だった大学生の頃、兄との体重差は最大40キロにもなった。兄の太い胴回りには広い心が宿っているのに対して、私のあまりに薄っぺらい胴回りには広い心が宿る余地はなかった。共通しているのは趣味。野球やサッカーを見るのが好きなことと、鉄道や飛行機が好きなことである。兄は特に鉄道が好きであった。東武伊勢崎線の準急電車の専門家として高校生時代は鉄道研究部の後輩に崇拝され、インターネット黎明期にドイツの鉄道のウェブサイトを立ち上げ、世界中の同好の士と交流し、それなりの好事家として講演までしたことすらある。私はただ鉄道に乗るのが好きで、時に「歩く乗り換え案内」と嘲られるくらいだった。

しかし、そんなに真逆で遠かった兄の背中が、パンチ佐藤が「いまやレオの尻尾がはっきり見える」と言ったように、はっきり見えるようになった。あくまで結婚後にあれよあれよと増えた体重だけであるのだが。なお、太い胴回りになったからといって広い心が宿るとは限らないことも己が太ってみて思い知った。

閑話休題。その双子の兄から、ドイツのデュッセルドルフへ留学すると聞いたのは、翌年のリフレッシュ休暇の使い道の見えない2016年の梅雨の時期の頃だった。ボストンなどいくつかあった選択肢のうち、デュッセルドルフを選択したのはなぜか。当然兄の仕事における研究内容によるものだという大前提のもと、ドイツ鉄道の研究も目的であろうことは容易に想像がつく。アセラ・エクスプレスよりICE。しかし、それだけではない。デュッセルドルフは私たち家族にとって思い出の場所であったのだ。

3歳から6歳まで、父の留学先にくっついて行き、当時は西ドイツだったエッセンというルール工業地帯の炭鉱の町で3年間過ごしていた。あの頃の私はあまりに幼かったせいであろうか。現実感はない。ドイツ語を頭の中からその痕跡を一切残さない、松本清張も感服するに違いない完璧な無意識によるアリバイ工作により、ドイツで暮らしていた過去など全てが帰国子女になりたいという妄執による産物であり、私自身、己が実際にセルフブランディングと称した粉飾に満ちた経歴を掲げているのではないかと訝しむが、父母と二人の兄の4人が皆ドイツ語を話せる現実に目を向けると、私以外の家族の頭がDVDだとして、私の頭の容量はフロッピーディスク程度ということであろう。どうやらドイツに住んでいたことは現実らしい。エッセンからデュッセルドルフまでUバーンという近郊電車で30分くらい。日本人駐在員の町として日本人街のあったデュッセルドルフには、私たち家族の住んでいた当時は三越があり、ドラえもんの漫画本をそこで買ってもらったという記憶は、それが妄想でないのだとしたら、おぼろげに残っている。

兄は留学先にデュッセルドルフを選んだ。そして、6歳の時に帰国をして以来、大学の卒業旅行の際にフランクフルト空港でトランジットしたほかは、ドイツに足を踏み入れていない私は「兄の元へ行き、家族の思い出の地を旅する」を旅の大義名分にせんと謀る。

留学の1ヶ月前、唐突に兄は結婚した。俗に言うスピード結婚というものである。留学から帰ってきてからの結婚となるとあまりに先送りになってしまうので、すぐに決断したそうである。ただ、日本で結婚式を挙げる時間なんてなかった。入籍だけして兄夫婦が慌ただしくドイツへ旅立った後、私は兄に要求した。そしてその要求は私の父母、長兄もした。「ドイツで結婚式することはマニフェスト・デスティニーではないのか」と。

数ヶ月後、兄夫婦はドイツで結婚式をすることに決めた。我々の身勝手な要求など関係ないだろう。兄夫婦自身も断固としてそうしたかったに違いない。義姉はドイツ語圏のウィーンに何年も暮らしており、言葉の問題はまったくなく、文化的に馴染んでいる。そして義姉のご尊父は無数にデュッセルドルフへ出張経験があるらしく、「庭」と豪語されているとのことだった。

結婚式は2017年11月の初旬となった。次の課題は一人で行くか、妻と息子2人を連れて行くか。

この時期に幼稚園3年皆勤賞をほぼ掌中にしている長男を連れて海外旅行をするなんてことは、我が家の和室の床の間に掲げている教育方針「やむなき理由を除き、休むべからず」を真っ向から否定する蛮行であるとしたいのだが、有給消化率を年がら年中計算している私は、そんなものを掲げられるほどの恥知らずではなく、そもそも我が家には床の間なんてない。無いのは旅費だ。無い袖は振れない。我が家を代表して、一人で行くしかない。

「行ってきなよ」と心優しい妻はいう。しかし、出会って17年。結婚して9年。その言葉を無邪気に本心と信じるほど、私の妻の心を読み、夫婦間の空気への探究心は荒廃していない。実際、私が一人で行くと決まった時を境に、妻の幼稚園ママとの飲み会は急増した。妻の本心は、私にリフレッシュ休暇の使い方を問うてきた会社の同僚の藤川さん(ママ)の半笑いの声によって容易に具象化した。

「えー、ありえない。」

されども、胎内の時から同じ時を過ごしてきた双子の兄の結婚式となれば、空気をあえて読まない覚悟をもって地球の果てであっても出席するのは行雲流水のごとき。馬耳東風を決め込み、錦の御旗は掲げるのだ。

揺らぐことなくドイツへ行くと決めた以上、期間をどうするか。父母は兄の結婚式後もしばらくドイツ周辺に10日間くらい周遊するという。70歳近い父母の行き帰りの機内が心配である。行き帰りのフライトは付き添った方が良いのでなかろうか。息子としての責任。そして一つでも増やしたい大義名分。私より断然旅に慣れ、ドイツ語も堪能な父母に頼りない40歳の息子なんぞ足手まといであることは明白なことにはあえて目を瞑り、13日間を海外へ過ごす大義名分として、大いに利用する。結婚式が終わったらすぐに帰った方が家族のためではないか。いや、リフレッシュ休暇期間を繰り上げるわけではないので、結婚式後すぐに日本へ戻っても世話の焼ける大きく汚い世話の焼ける豚が家でゴロゴロしているだけなのだ。どちらにせよ、妻にとっては夫が一人旅で好き勝手するのも不快だろうが、家でゴロゴロされるのもきっと不快この上ないはず。そう盲信することで、後ろめたさに打ち克つ。この千載一遇の好機を逃すと、旅の機会はない。

父母に金魚の糞のごとく付いて回って、13日間を過ごすのも一興としたいが、私は40歳の自立した大人である。ドイツを起点として行きたいところへ行きたい。行きたいところはどこか。トルコだ。毎年行きたいほど、トルコは好きで、どうせホームシックにかかってほうぼうのていで埼玉に逃げ帰るのだろうが、未だにイスタンブルに住みたいというほぼ妄想に近い夢が少しばかりある。

大学時代の東洋史専攻のゼミの同級生に夏彦くんがいる。私は彼より2つ年上であるのだが、私は3年間の他大での学生生活を切り上げて、再入学していたので、ゼミに入った3年生の時、彼は唯一の先輩であった。ちなみにこの時のゼミの男は3年生と4年生合わせて5人。4年生は夏彦くんだけであったが、他の3年生は中退からの再入学やら、二浪やら、一浪一留やら、果てしなくモラトリアムに挑戦する休学を繰り返す者やらで皆が複雑な経歴であったため、一番年下なのが夏彦くんという捻れが生じていた。

夏彦くんは実に優秀。ペルシア語堪能。完璧な卒業論文を仕上げるために最年少の先輩から魑魅魍魎たる腐臭漂う我々と最年少の同輩ということになり、1年間の一応の「さん」付けから呼び捨てに降格させられる屈辱を味わいつつ、さらには文学部の大学院という魔境に足を踏み入れ、華麗にマスメディアへ就職していった。綺麗に就職したのも5人のうち彼だけであった。

最近彼とやり取りしているわけではないのだが、私の見える限りでは夏彦くんは独身貴族を謳歌している。彼女がいるかどうかは知ったことではない。ゴールデンウィーク、夏休み、冬休み。彼のFacebookのタイムラインには、トルクメニスタンやらオマーンやら、私の行けない旅の記録で埋め尽くされる。なんということだ!私のしたい旅の人生を彼は送っている。羨望と悋気は入り乱れ、いつの日か夏彦くんのような旅をしてみたいと淡い乙女の恋心のごとく願うのである。

2017年の初頭だろうか。夏彦くんはコーカサス地方を旅していた。ジョージア(グルジア)での彼のFacebook投稿に心が踊った。首都トビリシが別府を大きくしたような町で、温泉が町中至る所にある。入国の際に公費でジョージアワインを1本くれるなど。彼にとっては旅先でのたわいないシェアかもしれないが、乙女たる私は彼の旅をなぞって体感したいと切々と願う。

しかし、コーカサスへの旅程を考えているうちに気が変わった。夏彦くんは自らが行きたいところへ行く開拓者。すでに切り拓かれた旅の道をなぞることだが、真に己の喜びか。どんなに私が女々しくとも、男なら自らが新たな道を切り拓かなければならぬ。断じて夏彦くんの二番煎じであっては己が埃が許さないのだ。そういうわけで彼の行ったことのなさそうなトルコ周辺の国の「地球の歩き方」やら、ブログ記事を熟読し、行きたいところを探すのだ。知っている人の旅をなぞることは誇りが許さないという揺るぎない頑固さと、知らぬ人の旅は素直になぞろうとする柔軟な素直さは見事に同居するのだ。根底にあるのは、夏彦くんへの嫉妬と羨ましがられたいという思いだからである。

しかし新しい旅の道を切り拓くといっても、身体だけは太く、シロアリがたらふく喰らっているのか中身はスカスカな脆弱極まる大黒柱として、危険のない安全第一の旅をするのも責任である。万が一の際に住宅ローンを完済する団信には加入しているが、生活費や息子たちの教育費を賄うだけの生命保険に掛け金を投じてはいないのだ。家族を路頭に迷わせないために、無事に帰らなければならず、そうなると当然シリアやイラクは検討の余地なく論外となり(2008年のアジア・チャンピオンズリーグでアル・カマラがガンバ大阪に準決勝に進出していれば、シリアのホムスへアル・カマラ対浦和レッズを見に行ったのに!)、コーカサス諸国やイランは夏彦くんがマーキング済み。どこへ行こうか。

大学3年生になったばかりの春。4年生の夏彦くんもいて、我々3年生は汚い経歴の男たちと大学1年生の時までコギャルをしていた内川さんを中心とした同学年の女子たちが数人いた東洋史専攻のゼミ。通常の我がゼミだと卒業論文に向けて、浅薄な研究内容の発表してはその稚拙さを当然のごとく指摘されて涙目になることに明け暮れるのだが、その時はゼミの担当教官の元坂先生は1年間のトルコからの留学帰り。その影響で4年生は夏彦くんしかおらず、さらにその彼は早々に卒業論文は次年度に持込もそうと決め込んだのか、ゼミ自体が始まった矢先に宙ぶらりんなのであった。我々3年生の研究テーマが定まるまで、皆で一冊の小説を講読した。ユーゴスラビアのノーベル文学賞作家イヴォ・アンドリッチの『ドリナの橋』の舞台となった町こそがヴィジェグラードである。

ここで突如、場所をバルカン半島へ移動し、時を数百年遡る。コンスタンティノープルを攻略し、ビサンツ帝国を滅ぼして世界史を大きく動かしたオスマン帝国のスルタン、征服者(Fatih)ことメフメト2世が、ボスニア地方を征服したのは1463年。第一次世界大戦の起爆地となり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で凄惨な包囲戦の舞台となったボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォの歴史は、そのトルコ語名サライボスナ(Saraybosna=ボスニアの宮殿)ということから分かるように、オスマン帝国のボスニア支配から始まった。

新しく支配下に入ったボスニアの中心サラエヴォと、その当時オスマン支配下にありバルカン全体の中心であるベオグラード(現在のセルビアの首都)、さらにはイスタンブールへと街道が繋がっていくのは自明である。その街道の行く手を阻むドリナ川に築かれた橋、ソコルル・メフメト・パシャ橋が『ドリナの橋』の主人公であった。

話をあっという間に現代に戻る。呑気かつ安穏なハト派サラリーマンであってもクルックーと鳴いてばかりではなく、会社にて精神的に疲れてしまうことが稀にある。そんなことに拘泥しないよう心掛けているが、その時ばかりは精神的に疲れてしまった。普段悩みなんてさらさらない能天気野郎と後ろ指さされていた私が鬱になったのではという噂まで流れた。鬱になったことはないので、鬱とはどういう状況かは知らない。しかし精神的に疲れてしまったのは確かなので、己が大事とスタコラサッサと逃げる準備を始める。会社から出るという逃げ道。会社の中での逃げ道。いずれにせよ逃げるための行動を起こし、精神的な逃げ道として過去を雅遊を選ぶ。

そんな状況下においては普段もそうである以上に会社にいたくないものだから、残業なんてしない。会社から40分くらいの母校へ行く。図書館の地下2二階の書庫へ行く。『ドリナの橋』を手にする。白い壁に囲まれ、寒々とした白い蛍光灯の下、無数のステンレス棚に並ぶ、本のカビ臭い殺風景な地下室。そこで写経のごとくひたすらそれを書き写す。先のリフレッシュ休暇の算段と今の唾棄すべき状況、逃げ場としての過去は、ここに繋がった。ヴィシェグラードへ行こうと決めたのである。ドリナの橋の上で命をジャブジャブ洗濯するのだ。

【そのうち続く】


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