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京島の10月|28. 文字にするのが勿体ない

睡眠時間が増えた。布団に入る時間はさほど変わっていないので、日中の体力消費が大きいのだと思う。凸工所の10月営業は今日が最終日。今月の一般利用はさほど多くなかったが、それを補って余りあるEXPO関連の来場者やワークショップの参加者が訪れていた。今日も例に漏れず、会期の終わりに向けて増える見学者とたくさん話をした。

京島の人たちの写真を撮っている2人とも話をした。写真を撮っていいですかと聞くと、普通の街では7割くらい断られるそうだが、京島までは大抵OKだという。何となくわかる。 撮影してもらった写真を送ってもらうと、なるほどぎこちない笑顔が写っていた。取材で撮影することはあるが、撮られることにはこれほど慣れていないのか。しかしながら、街の人として撮影されたのは素直に嬉しいことだった。

来訪の合間を縫って、シルエットを壁に投影する装置の実験を進める。参考資料はYouTubeで、あとは実践あるのみ。紙コップで覆うだとか試したが、結局は光量の大きい懐中電灯を棒にくくりつけ、あとは文字の位置をスライドして調整できるようにした。

いくらラボで作り込んでも現場での調整が必要なこと。きっちり作りはするが、素材はあり合わせのものでも仕上がること。そういった、EXPO中に見て学んだ風景から、その辺であるものでバッとを作ることを学んだ。何とか成り立たせることができ、これぞファブマインドだ!と一人で興奮しながら、壁に文字が出た嬉しさをかみしめた。

「忘れられない時間にするから」と誘われ、お客さん向けの張り紙だけを残してラボを早めに閉め、コンサートへ行く。暗く静かな空間の中、見知った人も、何度か声を交わしただけの人もいる中での演奏を聞いていたら、開始早々に泣いてしまった。またしても感受性が決壊した。

この1ヶ月の出来事が多すぎて、それを毎日文章に書いてはいるのだが、目を閉じて演奏を聞きながらゆっくりと振り返る時間は、全然質が違っていた。 コーヒーも、演奏も、植栽さえも顔の見える人によって作られている空間がたまらなく愛おしくなったのかもしれない。上着のジッパーを閉めて顔を覆い、何でもないような表情をしながら、瞼の裏で明滅する踏切の赤色に体を委ねた。

海の上に投光器を持っていき、ついでに再び豚汁をご馳走になった後、押上で友達と少しばかり顔を合わせる。再び京島に戻って、分館のイベントへ。歌や踊りや演奏を自由に行う、一夜限りの、そしておそらく今の分館では最後の祭。見たものをそのまま書こうと思えば書けるのだが、それが勿体無いほどの良い時間だった。

この企画を始める際、筆者は「公私を問わず、半年ほどの生活の中でもあまりに多くの出来事が続き、このエリアでの生活を文章で示すことの困難さ・傲慢さ・果てしなさを感じたこのエリアでの生活を文章で示すことの困難さ・傲慢さ・果てしなさを感じた。」と書いていた。

これは、街の情報量の多さや変化の速さに対して意識したものであった。しかし、情報の正しさや量の多さとは別に、ただ「楽しかった」「良かった」という、その感覚だけを残しておきたいという向きもあるようだ。

このnoteは「すみだ向島EXPO2023」内の企画、日誌「京島の10月」として、淺野義弘(京島共同凸工所)によって書かれているものです。

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