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最後の懐古

UMB2023千葉予選を終えて

基本的に、HIP HOPという生き様が染み付いていない僕は「人生を賭けて」ラップをするなんてことはなかった。

だが、今回だけは特別だった。僕が育ってきたまちで、僕がラップを始めたまちで、僕が仲間たちとイベントを始めたハコで、バトルで言った通り、王冠じゃなく看板を取るために、覚悟を決めて戦ってきた。
結果は2回戦敗退。わかってる、顔じゃないってこと。

優勝は木更津で地道に活動を続け、その空気を松戸のまちまで、いつも運んできてくれているKENさん。取るべき人が取った。改めて、おめでとう。そして、ありがとう。

やめるだなんだは、まだわからない。無責任にそんなことを言うのが怖くなるくらい、僕はみんなのことが大切になってしまった。

今日は、少しだけ思い出を語らせてほしい。

「わたなべゆう」という人生

小学校の頃から、当時は珍しい「空気の読めない」「気の狂った」子だった。廊下に立たされるのは、秀でているからではなく、劣っているから。だいぶ大人になってから、それを「発達障害」と呼ぶことを知った。

職業診断ではいつも「芸術家タイプ」と出る。リズム感も、絵心も、空間認識能力もないのに。世界は残酷だと当時から気づいていた。
ただ、一つだけ不遜を承知でいうなら、「言葉」だけには何かの可能性を感じていた。

中学に入ると、「目立つからいけない」ことに気づき、おとなしく生きることにしていた。中学生くらいまでは、国語が得意なだけでほとんどの問題の意図を汲み取ることができ、数学も英語もできてしまうので、この一点に関してはそこそこ生きやすい要因になっていたと思う。

高校では、初めて部活動というものに本気で取り組んだ。ラグビーというスポーツの空間認識と戦術理解という、ADHDにはとっては地獄のような枷をつけながら。この時も力をつけることだけに特化し、なんとかレギュラーを取ることに成功した。いつも、みんなと同じ道は歩まない。いや、歩めない。

大学に入ると、自由に授業を取れるという、またしてもADHDに取っては地獄のような環境を与えられる。
テキトーに入れた単位は守られることがなく、家でウイニングイレブンを日が登ってから落ちるまで続ける日々が続いた。そんな中でも、誰かの論文を書いてあげて、代わりに半年分のノートをコピーさせてもらうという、「言葉」でディールしていた記憶が蘇る。

社会人になるまで1年の浪人を経た。
その間、無責任にやるバイトは最高で、無責任ゆえに本気でやっていた。
「終わらせば早く帰れる」「友達を早く帰せる」というだけのモチベーションだ。
余談だが、「時給でももらったらプロなんだから本気でやれ」という言葉が大嫌いだ。プロをやるのは、もらった金の価値までだけだ。

その後、ある地方自治体で公務員をしていた僕は、必要以上の責任を勝手に背負って、仕事が辛くなってリタイアした。思えば、その時から今に至るまで、鬱的な何かを患っている気がしている。
責任を負うと急に弱くなるのは、今の今まで変わっていなくて、それが情けない。

また、自由を得た僕は、荷揚げ屋という現場仕事を始めた。月のシフトを出さず、前週に出勤日を決められるスタイルは、本当は働きたくない僕にぴったりで。月収でなく日払いや週払いが可能なのは、金遣いが荒い僕にぴったりで。ものを運んで稼ぐというのは、言葉という金にならない特技のほか、力しかなかった僕にぴったりで。

ついでに、これまでなんとなく法律に触れてきたので、行政書士試験の勉強を始めた。大学を出ただけの意味があると思えるような仕事に就けるようにと。それまでは、地元で市議会議員になりたいとか思っていたんだけど、いつしかどんどん向いてないことに気づいていた。

しょうもない人生を振り返って気づいた。
「ああ、多分俺、居場所を作るの好きなんだな」と。
自分が弾かれ者だと気づいていた僕にとって、「まち」や「ハコ」といった「場所」は、特別なものだった。

仕事が休みの日、ふとYouTubeを眺めていると、「般若VS焚巻」という文字が見えた。なんだか知らないけど見た方がいい気がした。そこには、変幻自在にラップしながら、そこに生き様を乗せるふたりのMCの姿があった。
KREVA三連覇のあたりの違法アップ動画しかMCバトルを見たことがなかった僕にとって、運命的な出会いだった。

当時世話になっていた会社の社長に、「MCバトルって面白いすね」って言ったら、いろんなMCを教えてくれた。その後、その年のUMBの代表が松戸のMCだということを知った。
そして…駅前では「サイファー」という集まりが催されていることを。

「狂人」という人生

人狼ゲームの無責任に動き回れる「狂人」という役割が好きで、さらには松戸=MADの名を背負うことに価値を見出したのが、僕の名乗っていた「狂人」の由来だ。

記憶が確かなら、初めてのサイファーは2017年2月の松戸サイファー。長い付き合いのメンバーとはだいたいここで出会った。

1小節目のケツと、2小節目のケツで韻を踏んで、それに時に喜び、時に恥じらい。それ以降は何も喋れなくなるというラップ初心者あるあるをかましまくっていたことを思い出す。6年以上ラップしていても、まだそれをやるのが僕の悪いところなのだが。

2ヶ月経ったくらいの時、みんなでバトルにエントリーすることにした。
それが千葉の盟友D.Dくんがやっている「PRIDE MC BATTLE」。
サイファー単位でのがっつり新規エントリーは当時珍しかったと思う。
思えば、今年のUMB千葉に新たな土地から若い子がたくさん現れたのには、あの時みたいな高揚を感じる。

初めてのバトルの相手は、今も現場第一主義で輝き続ける埼玉のMCだった。もちろん、ボッコボッコにされた。
彼は、僕が成長した姿を一番くらい見てくれている人だと思うから、今回負けたということを知られるのが、勝手に決めた約束を破ってしまったようで、本当に辛い。

僕個人がなかなかバトルでの勝ちを拾えない中、松戸サイファーのメンバーは「イベント主催したい」という夢を持つようになっていった。
「FANCLUBっていうDJ機材だけ置いてあるスペースがあるんだけど…」、地元の人が使っている場所を、地元で起こった文化とつなげたい、ただそれだけで、「なんかいいことをしている気分」になっている僕がいた。

当時、今でいうMRJや凱旋MC  BATTLEすらもなかった中で、新進のMCバトルをやるという発想が、何も生み出したことのない僕にはとても嬉しかった。いろんな人に迷惑をかけはしたものの、イベントは想定以上の成功を納めることができた。あの時「M.T.D」に出てくれた方には本当に感謝しています。
ちなみに、UMB当日に着てたTシャツはあのイベントのユニフォームで、欲しい人はまだウチにあるかもしれないんで、声かけてください。

M.T.Dは2回目と、2.5を経て、まだ開催できていない。終わったとは言わないぜマイメンたち。
2回目に友達が友達をボコボコにして、ついでにカウンターのガラスを割って飛んだから、も理由の一つだ。見てたらガラス代返しに来いよ。
その時雄猿くんと組んで優勝したVENMさんが、UMBのエントリーにM.T.Dの名前書いてくれて嬉しかったことをいまだに思い出す。

数回のイベント開催を経て、FANCLUBはイベント回数増やすため(というよりもまちからムーブメント起こす機会を増やすため)に、ブッキングマネージャー的なものを置くようになり、僕はそれのひとりになった。

思い出せないくらい、いろんな人に使ってもらった。
僕個人は無音MC BATTLEという、アカペラのバトルを主催しながら、マネージャーを続けていた。
個人的には、イベント前日に入院せざるを得なくなった友達と、彼のイベントのフライヤーを後日MVに使ったゲストの姿が忘れられない。またイベントやろうね。

荷揚げの仕事とハコの運営が忙しく、行政書士の勉強には5年を費やしていた。なんとか受かったその翌年、コロナが始まった。

これまでのようにイベントができなくなるという危機感のもと(僕はいままでみたいにイベントやるって息巻いてたけど)、配信プロジェクトを始めることにした。あの時クラウドファンディングを手伝ってくれたみなさんにも、本当に感謝しています。
今プロジェクト活用あんまりできてないから、活用しよう…。

開業したての行政書士の仕事と、そのプロジェクトを続けるのに限界だった僕は、急にブチ切れてしまった。「やめます」と。
その時に兼ねてから紹介していたsak_riceさんがマネージャーの役割を引き継いでくれることになった。サクさんには感謝してもしきれない。

ついでにバトルもやめようと思って、1回限りと思って本名でバトルに出た。
もちろん、そんなことで強くなるわけもない。簡単に負けた。

僕は、ケジメをつけるために「狂人」という人格を飲み込むことにした。

「渡部裕」という人生

本業の行政書士も、荷揚げ屋も、ポエトリースラムでの詩人としての名義も、やめられなかったラッパーとしてのMCネームも、本名に統一した。

二度と逃げないという覚悟だけど、見透かされたように千葉のラッパーの先輩に「本名にしたんすか、押し潰されないでくださいね」と言われたのを思い出す。

2022年2月、忘れない。「わたなべゆう」と「狂人」が成し遂げられなかった「何かで一番になること」を、「渡部裕」がやった。

ひとつ目は、ポエトリースラムの大会「川越スラム」。
人生初めての優勝だ。今でいう「アレ」だ。決勝の相手が同学年でポエトリースラム現役最強と思われる三木悠莉さんだったこともめちゃくちゃ感慨深い。彼女の場合、世界大会の予選となる全国大会を取り仕切る代表の立場もあり、平場のイベントでもない限り、なかなか戦うことすらままならないのだ。あれから、一度も勝ててないのは、内緒。
優勝が決まった途端、地元にも関わらず体調不良と称して家で寝込んでいた相方EDGEが「おい今から飲みに行くぞ!」とメッセージをよこしたことを思い出している。

もうひとつは、地元の先輩VENMさんが始め、今では埼玉のKOOPAさんと共同で主催している「S.N.S MC BATTLE」というイベントだ。
コロナ禍を経て、2ヶ月に1回というイベントペースを保たせていることに、本当に頭が上がらないし、「地元を盛り上げるのは本当は俺がやらなきゃいけないのに…」という葛藤がすごい。
この時の決勝の相手はゴルフェイこと大生(ひろき)で、数軒となりに住んでた仲でもあるので、同じく感慨深かった。
ちなみに、EDGEは最前列で喜んでくれて、「チャンピオンライブ客演乞食」をしてきた。憎めない相方だ。
「令和二年夕刻」のリミックスをさせていただいた関係からも強く憧れていた早雲さんに僕のラップを見せられたこともいい思い出だった。喜ぶEDGEに歩歩さんの姿を重ねていたのは、ここだけの秘密。

渡部裕になって初めて主催した「無音」には、京都からその早雲さんと歩歩さん、あとはずっと僕のイベントを応援してくれていた千葉の友人SHAMOくんをお呼びした。
実は、動画チェックが済んでないけど、公開予定だから待っててね。
イベントにお呼びする人は「縁(あえてエニシって読んでます)」が大切だと思っているので、今後も本当に大切にします。強いていうなら、「地元が大切」って概念を共有できる人だと思っている。

プレイヤーとしての僕は、優勝は重ねてないけど、そこそこバトルで勝てるようになってきていた。S.N.Sでは準決勝敗退を繰り返し、営業かけなくても折を見てライブさせてくれる人も増えて。きっと天狗になっていた。
「松戸でやるんだ、俺が取るしかないだろう」
数ヶ月前からの慢心が、今も心を抉っている。

これから

伸びる髪の毛もないのにゴンさんを気取っていた僕は(わからない人はハンターハンターのキメラアント編を読んでください)、「もうこれで終わってもいい」と思いUMBに臨んでいた。

多分、数ヶ月立ち直れないと思うし、実は先日グリっとやってしまった膝の半月板が割れているらしく本来はあんまり歩くのも良くないらしい。
来月にはおそらく手術がある。荷揚げの仕事もできないし。

必ず帰ってくるとも、必ずやめるとも言わないようにしようと思った。
それは、今はラップをたまたまやっていない、松戸サイファーのメンバーが「やめた」とも言ってないのと一緒。

もしやめたなら、彼らの今後の人生が、ラップをしていた時よりも幸の多いものであるのを願うのみだ。

やめてないなら、いつか会えるさ。

…とはいうもののS.N.Sのスタッフは世話になってるんで続けるし、例えばUMBに出てた若い子とかが「渡部が出るなら出る」とか思ってくれるなら出ようと思います。

俺自身の安っちい決意より、このまちの未来の方が大事なので。

あんまり金もないんで、でかいこと言えないんですが、来年は「松戸のため」に何かやりたいと思います。

決まったらお知らせするので、ただのわたなべのSNSや現物をチェックお願いします。












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