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プレ皇室研究: また面白い神社、みつけたよおーw 志登神社

だめだ。福岡県沼から抜けられないですwww
豊玉姫神社が糸島にあるーーーー!!(ちなみに、実家らしい対馬にも神社がある。素晴らしく美しい。)

では、リンクと引用します。「」は引用です。

まあ、927年っていうだけだと古くはないが。

「延長5年(927)にまとめられた『延喜式神名帳』に十九式内社の一社でとして糸島で唯一記載せられた式内小社です。」
御祭神は海神である大綿津見神の娘、豊玉姫命です。龍宮で身籠った豊玉姫命が彦火々出見命(山幸彦)を慕って陸に上がったのが当地とされ、昔は浮島となっており、海上から参拝するようになっていました。対馬の和多都美神社より当地に降臨したとも伝えられ、水と海運、富と権力、縁を結び、子孫繁栄を保証する女神、福を招き、出世を約束する女神とされています。古は志摩郡・怡土郡の総社として、この地方に於ける最も有力な神社として中央にも認められ、郡民一体の崇敬を集めていました大社であったと伝えられています。

社地の近くには豊玉姫命が髪を梳った地とされる岩鏡や、鏡掛松、拝松、古宮、玉ノ井などの古跡が点在しており、南東5kmの高祖山で彦火々出見命を祀る高祖神社、彦火々出見命が龍宮に赴くのを導いた塩土翁を祀る志摩芥屋の塩土神社も何かしらの関わりがあると考えられています。

古くからこの周辺は、海洋交易の要衝で、入江が東西から割り込み伊都国の港を形成していたと考えられています。南東600mにはそのことを裏付ける志登支石墓群が残されています。国指定遺跡の志登支石墓群は、弥生前期(約2500~2200年前)に造られ、朝鮮半島との繋がりを示すものとされています。」

ここ、ここ。古さがぷんぷんしますなww


「天正9年(1581)11月に高祖山城の城主であった原田隆種により再建され、高祖神社の御祭神である息長帯姫命と武内宿禰命の御神体を分霊し、潤村から西太郎丸村まで12丁歩の神田が寄附されました。しかし豊臣秀吉の九州平定(1586-1587)の時、神領を悉く没収され神官社僧も皆農夫となり廃絶の危機に至ります。元禄3年(1690)3月、第3代藩主の黒田光之から神田1町6反の寄附と共に神殿を初め末社に至るまで造立され再興されました。明治5年(1872)11月3日郷社に列格、大正5年(1916)10月12日県社に昇格し、同年12月12日幣帛供進社に指定されました。平成27年(2015)12月に前年の火災焼失から再建されました。」

若干、説明が後付けくさいのもあるが、これはどうみてもやばい。

「西方に向かって社殿が建てられている志登神社は、冬至に夕日が沈む時、鳥居から社殿を結ぶ参道が一直線になります。志登神社を中心に、夏至・冬至の日の出・日没の方角、及び東西南北には伊都国の重要な山々があることから天体観測の地でもあったと考えられています。」
「社殿向かって右手前に太陽観測石と玉の井(井戸)が祀られています。玉の井は元治2年(1865)正月元旦に奉納されたものです。太陽観測石は伊都国時代の祈祷師が太陽を測るために用いた石とされています

おおー、これは素晴らしい。地味だけど素晴らしい。要するに農耕カレンダーに使われていたのだろう。

「岩鏡
豊玉姫命がこの岩の上で梳くしけずり給いし処と伝えられています。古いにしえには「岩鏡」と呼ばれていましたが、昭和20年(1945)の調査の結果「長川支石墓」と名付けられました。志登神社の拝殿から南200mにあります。」

素晴らしい。ドルメンだから古い。

「志登支石墓群
志登支石墓群
この遺跡は糸島市北部の田園地帯、標高約3メートルの低地にある墓地群です。
発掘調査は戦後間もない昭和28年(1953)に行われ、わが国における支石墓研究の貴重な1ページを飾ることとなった著名な遺跡です。

調査では、弥生早期から中期(約2500から2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されており、支石墓のうち4基が調査されました。支石墓とは遺体を埋葬した上に大きな上石を置くお墓です。元々は朝鮮半島によく見られるお墓ですが、弥生時代の始まった頃に日本にその作り方が伝えられました。上石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200センチメートル、幅約150センチメートル、厚さ約60センチメートルにも及びます。埋葬施設は素掘りの穴(土壙)や木棺であったと考えられます。副葬品として6号支石墓から打製石鏃6点、8号支石墓から柳葉形磨製石鏃4点が出土しています。支石墓は弥生早期から前期(約2500から2200年前)に造られたと考えられます。

支石墓に副葬品が納められるのは非常に珍しく、特に柳葉形磨製石鏃の出土は朝鮮半島との交流を物語る貴重な資料です。」

磨製石器は日本が世界最古だから、朝鮮半島の人に教えてやったんだろ(笑)。


まあ、弥生時代早期から中期だと素晴らしいです。
プレ皇室研究にぴったりw

うーむ、「行き来はしていたけど、実はかなり前から九州北部に定住していた」説はありだなあ・・・・。イザナギ・イザナミだけ2人で来たのは、怪しい。だって、高天原のその他の神様がいつ来たか、書いてないもん。子供じゃない人もいると思うよ。
中臣の先祖は、朝鮮系DNAだから、ピュア縄文人じゃないし。

ここの行事がちょっと他にない。
「千度汐井
夕方より氏子で汐井を作り神社へ奉納します」

「例大祭
女性権禰宜が狩衣をまとい『朝日の舞』を奉納し祭典を行います。
祭典が終わって宮司(生松天神社:宮崎宮司・産宮神社:岡本宮司)と共に直会を行います。直会の食事、甘酒、酒は神社にて用意しております。」


上記より引用 女性の舞

あれ? 二つ冥加紋だ。なにか系統があるのか?

「茗荷紋は、ショウガ科の多年草である茗荷をモチーフとした家紋。茗荷はその音が「冥加(みょうが)」に通じることから、縁起がいいとされた。冥加とは、神仏の守護のこと。このため神社や寺で茗荷紋が多く用いられている。
なんだ。普通の紋だ。


そして、入り口が素晴らしいのですが、なんと鳥居じゃないゲートです。横木がない。しめ縄はあるけど。

神社HPより引用

この言葉がわからないので、またあとで調べる。
中臣志悲加比

遠賀町というののHPにみつかった。筑前国の郡司らしい。どうみても中臣氏なので、本流の中臣氏でなくて、地元に残った人か、中央から赴任させられたのだろう。地位的には豪族ってほどでもない。709年だから、藤原氏になっている。

「 筑前国の郡司は、諸文献によると、

嶋郡大領 正八位勲十等 肥君猪手 大宝二年(七〇二)
宗像郡大領 宗像等杼 和銅二年(七〇九)
御笠郡大領 益城堅牛 同
志麻郡少領 中臣志悲加比 同

 などの名がみえるが、遠賀郡司の名は記録に残されていない。」

 やっぱり中臣氏は皇室にくっついていて、地元派と中央派でどっちもがんばって領地確保していたのだろう。

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