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プレ皇室研究: 八咫鏡 深堀 と天の安河 →たぶん、福岡県朝倉市

前に、内裏の大火事で八咫鏡が燃えて、燃え残りだけになって、それを箱にいれたという(現在、そのままのようです)話をしましたが、調べ直したら、実は、三種の神器の鏡は実は3枚あったのです!!

ええー。読んだはずなのに、忘れていたよーー。見逃した―!!

で、3枚のうち1枚は丸いママ、2枚目は壊れたけどまあまあ鏡ってのはわかる程度の焼け具合、3枚目は金属の玉に溶けていたーってことです。

それで、溶けたなら、どんな素材かを考えている人がいますので、それをもとにさらに深堀します。

「ここでの考えるヒントは、内裏が焼け落ちるほどの大火災に見舞われた八咫鏡が「玉のごとき金二粒」に成り果てたということ。木造家屋が焼け落ちる程度の火災においては、温度が最大1200℃に達するといわれていますが、日記の記述では焼け跡に「玉のごとき金二粒」が残ったとあるので、八咫鏡の金属素材は「溶融したが蒸発はしていない」と言えます。」

「つまり結論として、八咫鏡に使用されていた金属素材は、【錫】と、【金】もしくは【銅】と考えるのは妥当ではないでしょうか。金か銅か、というこの2種の特定については「春記」の記述からは出来ません。
 しかし【錫】+【金】(赤銅)、【錫】+【銅】(青銅)、【金】+【銅】のそれぞれの合金には、色の特徴がありますので、もし他に八咫鏡の色について記述している文献などがあれば、より正確な答えに近づくことができると考えます。」


材質ですが、平原遺跡のときと、その前の本当の天照大神の岩戸隠れのときで時代が300年以上違いますので、いったん、上記の合金の話でいうと「白銅」というのも多いですし、「青銅」も多いです。青銅器が祭器として使われます。鏡は古代では祭器です。
白銅を確認します。

「日本語の「白銅」の語は、ニッケルが日本で使われるようになった明治以前は、銅と錫の合金(青銅)のうち錫の含有量の多い白銀色のものを指していた。古代の銅鏡は、その原義の「白銅」を素材とするものが多かった。」

ついでに、「筑前国風土記 逸文」にこういう記述があります。
「昔、穴戸豊浦宮御宇足仲彦天皇(仲哀天皇)が球磨(クマ)・噌唹(ソ)を討とうと筑紫に行幸した時、怡土縣主(いとのあがたぬし)らの祖である五十跡手(イトテ)が天皇の行幸を聞き、五百枝賢木(いほえのさかき)を船の舳艫(へととも)に立て、上の枝に八尺瓊(やさかに)を掛け、中の枝に白銅鏡(ますみのかがみ)を掛け、下の枝に十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、天皇を迎えようと穴門引嶋(あなとのひけしま)に奉った。」

まあ、天皇が来るから似たような鏡を三種の神器風に用意して飾りましたというような意味です。まあ、豪族、勝手に鏡作ってOK時代(笑)。


錫の含有率が高い青銅のうち、白っぽいのが古代の白銅とみなされます。
なので、上の科学者の人の結論でいうと、「【錫】+【銅】(青銅)」がそれで、やっぱり青銅、白銅 が確率が一番高そうです。

というわけで、3枚のうちの1枚の材質はこれで問題は解けたかなと思います。
まあ、残り2枚はようわからんが、溶けてないので鉄か鉄の合金のほうかもです。

「『古事記』では、高天原の八百万の神々が天の安河に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷にして、金山の鉄を用いて作らせた」と記されている。」

さて、この記述ですが、堅石=硬い石、安山岩のことをいうことがあるそうです。まあ、それとは限らないですが。「金敷」って要するに「鋳型」ですよね。
古代の青銅器の作り方は、こういったところに説明がありまして、鋳型が出土しています。これは銅矛みたいですが、鏡でも同じです。糸島市、福岡市かどこかに出土しています。

発表が最近なのは吉野ケ里遺跡からも一昨日くらいに発表がありました。

金山は、一応、福岡県と佐賀県にまたがるようにあるので、わりと近いです。あんまり、鉱山には見えないですね。

https://yamap.com/mountains/13941

ただ、単純に「金属が取れる山」という意味でしかないかもです。
宗像市が近くて、金・銅が取れました。

小さいのがおそらくちょこちょこあるのかなと思います。
ただ、有名なのは江戸時代開発で、該当ではありませんでした。


そして、もう1つ、高天原の地名です。
天の安河」とあります。例によって北部九州を探します。「やすかわ」「やすがわ」「安川」などでもいいです。

実は、「安川村」というのがあったのですが、それはちょっと昔に作られた村の名前で、よろしくないです。

しかし、そういう名前にするのに、また古い謂れがあることが多いので、遡って調べると夜須郡にあたります。

夜須郡がいつからあるかを見ると、延喜式には載っています。

場所はここです。奴国のあった春日市に近いです。
奴国→伊都国への移動が、「天孫降臨」なので、奴国、春日市に近くてもこれはかまいません。むしろ、そのほうがいいし、鏡の原料は山から取れるだろうし、高熱に金属を溶かすには、たくさんの薪がいるので、山の中に鍛冶場・工房みたいなのがあっても普通です。

(ここ、余談だが、朝倉市周辺って、あの邪馬台国研究家の先生が、最有力地域と思っているのだ。福岡や伊都国からちょっと南東なので、まあ、推論としてはいいと思うが、たぶん皇室の先祖と、邪馬台国を間違えてると思うよwww 時代がちゃうやんか。)

まあ、ここからさらに神社か古墳、遺跡類と探します。
上記の延喜式にある神社がこれです。

さて、この神社の由緒を見ると、ああ、残念。神功皇后関係なので、もっと遅い。私が探しているものではない。

これもちょっと面白いが、実は九州北部にも「橿原」とか「樫原」ってあって、これまた伊都国内みたいなのだ。
こういう「昔住んでいた地域の名前をぱくってくる」というのがよくある。
日本中にちょっと小高くてきれいな三角の山はなんでも「XXX富士」っていうのと同じなのだ。
まあ、これで一番、誤って理解しているのが、例によって徳島県関係の「阿波は倭、国の始まり」説なのだが、相手していても時間の無駄なので、今日はスルーwww


おっと、先ほどの神社HPにもっといいのがありました。
この地域と奈良県橿原市近辺に似た名前があるっていうのだ。


引用

これは、なかなかいいかんじだ。

だから、最初の「高天原」=「奴国」周辺 と思ったら、後半は伊都国=糸島市だけど、前半は奴国=春日市、福岡市、もしかして+朝倉市という可能性はあるのだ。

(実はあと唐津市もあるが・・・まあ、あとで調べます。)

そして、さらにしつこく皇室の先祖が狙っているのは鉱山とかだし、鏡も金属なので、朝倉市近くで鉱山を探します。
一覧にしてくれている人がいるし、神武天皇立ち寄り場所の他の地域、北九州市と大分県には、やはり鉱山があるのだ!

やっぱりあった。
福岡県朝倉郡宝珠山村大字福井

朝倉郡で昔からありますね。

残念ながら、こっちにはない。

でも、もうちょっと北の方であるが、わりと朝倉市からは近い。
まあ、銅の素材は運べるので、工房があったのかもしれない。

あと、「金山」は宗像市の鉱山かもしれないと書いたが、宗像市には有名な宗像大社がある。
そして、神社の宝には銅鏡もある。
近くで作られたのかもしれない。



ついでに、こちら 廃鉱山を見に行っているが、ここかも?
まあ、銅山だったらなかなかいいです。

宝珠村っていうのが昔あったようです。
ふふふ、臭い。匂うぞwwww

岩屋神社というのがありました。
ああ、これ、巨石文化信仰くさい。天岩戸かもしれないです。(まあ、唐津市も調べないと確定はできませんが。)
写真がかっこいいーー!!!


まあ、神社そのものは新しいし、山岳信仰のもののようです。
ちょっと面白いのは、この謂れですが、隕石じゃないかな?

「元禄11年(1698年)に福岡藩4代藩主黒田綱政によって建立されました。外殿は「権現岩」と呼ばれる切り立った大岩のくぼみを利用して造られ、背面と左側面には屋根と壁が造られていません。彦山修験道に関係する貴重な建造物として、昭和63年(1988年)に国重要文化財に指定されています。

記録によると、欽明天皇8年(547年)のある日、突然、光輝くものが天から岩屋の岩上に降ってきたので、村人はこれを「何でも願いが叶う宝石」という仏教用語にちなんで「宝珠石」と名付け、ご神体として祀りました。
英彦山権現と同じく、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の三神をご祭神としています。宝珠とは仏の象徴を示す仏教用語で、願いが叶う不思議な玉の意味です。見ると目がつぶれると言われ、いまだに見た者はいないとか。」

仏教用語のくせに、神社とはwww
まあ、秘密を保ちたい人が適当な言い伝えを作りますねwww

残念! 天照大神の天岩戸とは関係なかったですね。


もうちょっと朝倉市で遺跡などを探します。お、いいかんじのがありました。

平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E5%B7%9D%E6%B7%BB%E9%81%BA%E8%B7%A1

「平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から西暦4世紀ごろ)にかけての複合遺跡である。」

「遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴建物跡約300棟、掘立柱建物跡約100棟が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居とみられる竪穴建物のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・貨泉(貨泉)などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。植物はアシ・ブドウ・ハンノキ・イチイガシ・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモなどが出土している。」

ふんふん。まあまあですな。

廃村とか、チェックしないといけないので、こういうのは見ておくとよいですね。


おまけ

「宗像郡 身形郡

西海道の風土記には このようにある。

宗像大神(ムナカタノオホカミ)が天降って崎門山に居た時、青蕤玉(あをにのたま)を奥宮の表(しるし)として置き、八尺蕤紫玉(やさかにのむらさきだま)を中宮の表として置き、八咫鏡を邉宮の表として置いた。これは神體形(かみのみかた=御神体)と為し、三宮に納め置いて隠した。」

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