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徳島の神社がやばい! 忌部神社

徳島の人が、「うちが本家じゃー」「こっちが元宮じゃー」とか言っている人がいて、ほんとかな? と思うので、しつこく1つずつ調べます。

今日は、忌部神社です。

徳島県の忌部神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE


「忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県徳島市二軒屋町にある神社である。式内社(名神大社)の後継社で、旧社格は国幣中社、現在は神社本庁の別表神社。」
明治25年(1892年)
新しすぎて笑うwwwww → 橿原神宮と同じじゃんwww 

「『延喜式神名帳』に載せる「阿波国麻殖郡 忌部神社」は名神大社にも列していたが、中世以降、兵火などにより所在が不明となり、近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張していたため、明治4年(1871年)に暫時「所在地不明」のまま国幣中社に列格し、翌5年に麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町)の村社忌部神社を式内忌部神社に決定した。これに対して美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社(現 当社境外摂社御所神社)が式内忌部神社を主張し、翌々7年(1874年)に改めて山川町の忌部神社を比定するという太政官布告が出されたものの、その後も論争が続いたため、同14年(1881年)に五所神社を式内忌部神社に変更したが、今度は山崎側が大いに反発し、結局太政官による妥協策として名東郡富田浦町(現 徳島市)に新たな社地を定めるという通達を出し、同18年(1885年)に眉山中腹の現在地を選定、そこに鎮座する郷社金刀比羅神社に仮遷座して五所神社を境外摂社とし、社殿竣工により同25年(1892年)5月15日に現在地に遷座した。

なお、式内忌部神社の歴史は忌部神社 (吉野川市) を参照。」

とほほ。争いだらけで、明治政府、疲れるなあ。


ていうか、こんなにいっぱいあるよ。
徳島県内だけでも、まだあるよ。

忌部神社(いんべじんじゃ)は神社

※ 論社とはこのとおり。→ ネット辞典より引用「延喜式に記載 された神社と同一もしくは、その後裔と推定される神社のことを論社(ろんしゃ)・比定社(ひていしゃ)等と 呼ばれています。 式内社の後裔として、ほぼ確実視されている神社でも、確実な証拠はほとんど無く、伝承に より後裔の可能性が、きわめて高い論社という扱いである。

ではチェックしてみましょう。


Wikipediaより引用

この中で、一番メインそうなのを深堀する。ここが本命でしたー!!

これだけ、いきなり古いなw でも伝承だしな。
「(伝)神武天皇2年」

ていうか、神武天皇は九州で即位したんだから、なんでその直後に徳島におるんじゃ??? という謎がある。
いや、この「即位」は橿原神宮での即位かもしれない。
だとしたら、すごい早いうちに忌部氏を阿波に使わしていることになる。

「『古語拾遺』の造祭祀具斎部の段に、天太玉命の孫神である天富命が、穀の木や麻を植えるのに適した地を求め、日鷲命の孫を率いて阿波国に至り、定住した阿波の忌部氏が大嘗祭に木綿や麻布などを貢納するようになったと記すが、以後も大嘗祭には同氏の織った荒妙御衣(あらたえのみそ)を献上するのが常であった[2]。また、当神社後方の「黒岩」と呼ぶ山腹に6世紀後半の築造と見られる5基の円墳からなる忌部山古墳群があり、これは6世紀前後に忽然と現れたもので、当地に移住してきた氏族集団があったのではないかと指摘されている[3]。

社伝によれば、神武天皇2年2月25日に、阿波の忌部氏が祖神である天日鷲命を祀ったのに始まり、もとは上述「黒岩」に鎮座していたと伝える。古来から氏神として阿波忌部氏から、また大同元年(806年)には封戸20戸が充てられていた(『新抄格勅符抄』)ので、朝廷からも尊崇されたたようである」

祭神はこれだが、どうもこの人が阿波忌部氏の祖のようだ。
太玉命神の子供とまでは書いていないが、いつも一緒にいるぽくて、部下なのかもしれない。

「天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。

麻植神(おえのかみ)、忌部神(いんべのかみ)とも呼ばれる[1]。また高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)ともされる。」

「『古語拾遺』によると、天日鷲神は太玉命に従う四柱の神のうちの1柱である。やはり、天照大神が天岩戸に隠れた際に、穀(カジノキ:楮の一種)・木綿などを植えて白和幣(にきて)を作ったとされる。そのため、天日鷲神は「麻植(おえ)の神」とも呼ばれ、紡績業・製紙業の神となる。また、天富命は天日鷲神の孫を率いて粟国へと行き、穀・麻を植えた。

『先代旧事本紀』の「国造本紀」には、神武天皇の御世に天日鷲命を伊勢国造に定めたと伝わる。一方、『伊勢国風土記』逸文には、神武天皇が天日別命を伊勢国に遣わし、伊勢津彦を平定したとされている。

また、天日鷲神は一般にお酉様として知られ、豊漁、商工業繁栄、開運、開拓、殖産の守護神として信仰されている。」

「『延喜式神名帳』の「忌部神社」の注記に「或号麻殖神。或号天日鷲神。」とあり、麻殖神(おえのかみ)、別名天日鷲神であることがわかるが、現在の祭神は以下の通りである。

天日鷲翔矢尊(あまひわしかけるやのみこと)
当神社主祭神で、阿波忌部氏の祖神である。
后神 言筥女命(いいらめのみこと)
主祭神の后神であろうが、他に見えない。
天太玉尊
忌部氏の祖神である。
后神 比理能売命(ひりのめのみこと)
天太玉尊の后神である(洲崎神社・洲宮神社参照)。
津咋見命(つくいみのみこと)
『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に、天日鷲命とともに穀(かじ)の木を植えて木綿 (ゆう)を作ったことが見えるが、天日鷲命の子神で大麻比古神社の祭神「大麻比古神」の別名とする伝えもある[10]。
長白羽命(ながしらはのみこと)
同じく『古語拾遺』天照大神の天岩窟幽居の段に見え、伊勢国の麻続氏の祖神であるとする。
由布洲主命(ゆふつぬしのみこと)
安房忌部氏の祖神で、天日鷲命の孫、大麻比古神の子とされる[11]。
衣織比女命(いおりひめのみこと)
他に見えず。」

えー、この人が橿原神宮を作ったんだ。
(今の橿原神宮は、もともとあったのがどうなったかわからないので、明治になって建てられたので、新しい。場所もたぶん用地買収の都合で、同じ場所じゃないと思う。地元に私がいたときから、「数キロずれてるで」という話だった。)

「神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。

そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。」


ちなみに、本家の奈良県橿原市忌部町には、この神社がある。→地元のわりと近く。5キロくらい??? 家長の方には会ったことはない。
ちなみに忌部山っていう小さい山があって、昔から名前が怖いので、子供心としては行きたくなかった。

創建は不明。
忌部神社というのかと思ったが、先祖の神様の名前だった。
天太玉命神社

ただまあ、奈良の忌部氏から、阿波忌部氏が派生したので、奈良のほうが新しいわけはない。明治じゃないしwww

記録上名前が残るのは、これくらい。

「創建は不詳。前述のように、天太玉命神社の鎮座地一帯は忌部氏の本拠地(本貫)と見られ、当社はその忌部氏の氏神として祀られたと推測される。

国史では、天安3年(859年)に「太玉命神」の神階が従五位上に昇叙された旨の記事が見える[2]。また『類聚三代格』の貞観10年(868年)6月28日太政官符では、飛鳥神の四裔神の1つに「天太玉神」の社が挙げられている[2]。」

ここですな。


そして、神社のあるところには、遺跡があるかどうかをチェックだっつ!!

まあ、当然と言えば当然なのだが、だって、忌部氏の一族が住んでいたわけですからなあ。

「橿原市の西方、曽我川右岸に独立した小山である忌部山(標高108.5メートル)が立地しています。
1970年(昭和45)に一部調査が実施され、丘陵の東北斜面(標高約90メートル)において直径5メートルの竪穴(たてあな)住居、幅1.2メートル、深さ1.0メートルをはかる溝状遺構が確認されており、集落を巡る溝の可能性が考えられます。溝内より弥生時代後期前半の土器、石器などが出土しています。西北側には平坦地が広く続くため、おそらく住居跡がまとまった状態で検出されることが予想されます。
本遺跡も上ノ山(うえのやま)遺跡同様、丘陵状の高い所に立地することから高地性(こうちせい)集落に位置づけられ、県下でも数例しか確認されていない弥生時代の遺跡の一つです。このような遺跡は、弥生時代中期から後期にかけて瀬戸内海沿岸と近畿地方に分布しています。弥生時代の遺跡としては特異で軍事的・防塞的(ぼうさいてき)集落と考えられていますが、よくわかっていません。県下では奈良市の六条山(ろくじょうやま)遺跡、天理市の東大寺山(とうだいじやま)遺跡、葛城市のキトラ山遺跡がみられます。」

弥生時代後期前半 というのはだいたい1世紀なのだ。西暦100年前後だ。
当然おそらく、神武東征で移動したあとの畿内だろう。あるいは、ニギハヤヒについてきて定住していたのかもしれない。
(もしかしたら、私の予想よりも神武東征を少し早くしてないとだめかもしれない。だとすると、母親の玉依姫が死ぬ前なのかもしれない。)

うーむ、それによるなあ。他の近場のももうちょっと調べよう。

結局、忌部神社については、1つは新しくて、吉野川市にあるのは古く、ほぼ神武天皇即位直後だとわかった。こっちがメインだ。(分社じゃないっていう意味。)要するに、神武天皇が即位したら、速攻で「阿波国にいってこい」と言われたわけですね。わあ、大変。

経歴的には、奈良の忌部氏から、一部の親族が阿波に移った。これはわりと直後だったらしい。ていうことは、倭国大乱の途中であっても移住したのかもしれない。それはけっこう大変だ。
阿波の忌部山古墳は6世紀だからぜんぜん新しくない。神社を作った村の人々のあとに、近くに移住してきたのかもしれない。


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