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プレ皇室研究: 古代朝鮮半島 続き 南部

前回は、竹田先生の朝鮮半島解説をリンクしました。

どっちかというと北部のほうで、いまだと北朝鮮あたりです。

じゃあ、南はどうかというと
辰国っていうのがあって、辰韓の前身らしいが、ほとんどよくわかってない(苦笑)。

「『三国志』によると、三韓の辰韓の前身にあたる国であるとみえる。『史記』によると、辰国に該当すると考えられる地域である真番は臨屯とならんで衛氏朝鮮に服属していた。辰国は漢に朝貢していたが、漢の武帝は、辰国(または真番の諸国)の朝貢を衛氏朝鮮が妨害しているとして、紀元前109年に兵を集め遠征した。武帝は紀元前108年に朝鮮を討伐し、衛満の孫の衛右渠を殺すと、その土地を分けて漢四郡(真番郡・臨屯郡・楽浪郡・玄菟郡)を置き、玄菟郡治を沃沮城に置いた。後の辰国(または真番の諸国)の地は三韓とよばれるようになったが、三韓の初出は44年(早くても20年頃)であり、時代が離れており、直接の関係を論証するのは難しい。考古学的には、遼寧省の青銅器が全羅道で発見されており燕の青銅器文化の影響下にあったことが窺える。したがって、辰国は実在したとしても、衛氏朝鮮の衛星国家であるか漢人の文化的影響下に形成された民族といえる。


わあああー、出たー。全羅道!!! (→普通のまじめな韓国人が「鬼畜」呼ばわりする地域らしいです。変な人が多いみたい(苦笑) 「パスポートなしで行ける外国」っていうんだそうです。韓国通のブログの人がいってましたwww やばり、韓国のタブー野郎www あ、地域か。

辰韓は辰国が樹立した国であるが秦人に似ているといい、『契丹古伝』は、辰国に多くの秦人が逃げて来ていることを伝えている[4]。殷(箕子朝鮮=番朝鮮)は衛満に伐たれて亡び、殷王は辰へ逃げる。秦氏(秦人)も随ったといい、秦人も辰国へ逃げてきており、辰人と混血した[4]。そのために、秦人に似ているとか、秦の言葉に似ているといわれる[4]。」

「東表から、山東半島に沿い対岸の遼東半島へ渡り、殷人と婚姻をなし、賁彌氏がが立って未だ日が経たないうちに漢が攻めてきた。淮委氏と沃委氏は並び連なり嶺東に藩をつくり辰の守郭となる。辰を淮委氏や沃委氏という種族が守っている。辰はこれらの種族が主要な民族であることがわかる[5]。」

うわああー、出たよ。また殷が出たよ!! 鬼畜シナ人の元祖ー!!!

ついでに、辰韓。


「辰韓(しんかん、紀元前2世紀 - 356年[1])は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『後漢書』弁辰伝や『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。ゆえに他国や他民族からは弁韓、辰韓をまとめて『弁辰』や同一発音の故に『秦韓』とも呼ばれていた。」

うひー、ぐちゃぐちゃでわかりにくいですね。
日本の歴史、島国だから簡単だなあwwww 大和朝廷だけ覚えておけばいいしwww(違)


ついでに、もっと南の国。弁韓。

「弁韓 (べんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて帯方郡の南側に存在した三韓の一つ。韓は海を隔てて東西に別れていた。弁辰とも言う。

弁韓は12の諸小国に分立していたが、それらの諸小国の首長は称号を持ち、最大のものは臣智(しんち)と言ったが、臣智とは「臣たるもの」の謂であり、中国皇帝に対する臣下のことであり、それを諸国の首長の立場から表現したものである[1]。」

うわあああー。それ属国じゃん。げんなり。

「馬韓の東、辰韓の南、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域である。その境は、辰韓と接しており、入り組んでいた。

のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国家の連合をつくった。」

「『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、縑布を作った。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった。武器は馬韓と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。

あれ? くそ殷鬼畜野郎たちと違って、「礼儀正しい」ぞ!!
邪馬台国の縄文人みたいじゃない? 
これ、やっぱり南部だから、縄文人と混血していて、鬼畜の北部ミームとぜんぜんちがうんじゃないかなあ・・・・。


「三韓時代
「三韓」を参照
朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器(無文土器)を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いた。紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われた。

紀元前後にこれらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件によって相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。」

うーむ・・・支石墓って、九州北部にもあるよね。まあ、世界中どこにでもあるんだが・・・。
うーん、青銅器と鉄器・・・同じタイミングなのかー。時期がずれてないと難しい。差がわからないー。

まあ、影響を受けているといわれています。



ちなみに、イギリスの5-7世紀で、アーサー王の墓と期待されている墓ですが、ほら、なんか方形周溝墓に似てます。
たぶん霧とか多いから、雨が墓の真ん中にこないように溝に流すのじゃないかなあと思います。
こういうのを見て、「うん、日本人の先祖はイギリス人」っていうやついたら、アホでしょwww 日本の方が古いし(3-5世紀)www 逆に「イギリス人の先祖は日本人」とかいってもアホでしょwww
要するに、「機能が同じだったら、デザインは似てくる」ものなんです。


ウェールズで見つかったイギリス王家のものと思われる墓 / Credit: Ken Murphy – Dyfed Archaeological Trust


そんなわけで、三韓の前身みたいな状態が朝鮮半島では起きていたわけですね。
シナ人(漢族)も、朝鮮民族(?)も混ざって住んでいて、中国文化から影響を受けていたことがわかります。
また、南部はなんだか、縄文人みたいに穏やかで豊かなようです。これは貿易も盛んでいいかもです。

さて、こんなので皇室の先祖は、どこからどこまで来たのでしょうか?
まあ北部九州はこういった朝鮮半島の文化の影響を受けていることがわかります。


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