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「差別をしない」三か条

以前、 いち在日韓国人の意見として、「差別」との戦い方 という記事を書いた。でも正直に言って、「戦う」と言われてはハードルが高い。そう感じる方も、いらっしゃったかと思う。

戦う自信は無いけれど、人を理不尽に傷つけたくはない――― あなたも、そんな心優しいひとりかもしれない。そこで今回は、私が普段意識している、
「差別する側に回らない」為のアイデアを3つ、紹介したい。

在日韓国人として経験した範囲でしか語れないが、ここに書いた内容は、他の差別問題にも同様に通じる事だと思っている。もし何かの参考になれば嬉しい。

 差別と戦うとは、
 差別をしないようにするとは、
 他人の言う事を、無視する事だ。

 他人の言う事に左右されず、傾かずに、
 目の前の相手を見て尊重し、
 正しい振る舞いを、自分で選択する事だ。


【1】相手が総書記でも無視しよう!

「差別をする側」に陥ってしまうパターンの内、一番気をつけたいのは「インターネットに書いてあった!」とか「○○で見た!」というケースだ。

実のところ、私のように在日韓国人をやっていると、「よく知らないけど、インターネットにそう書いてあったから」程度の情報を元に侮辱された経験は、数えきれないほど、ある。

これはどこでも言われている事だが、正しい情報も間違った情報もいくらでも手に入る現代では、「情報を受取る側のスキル」が重要になる。いわゆるメディア・リテラシーというやつだ。情報の真偽を疑い、一次情報を確認するなど、情報を吟味する姿勢が有効とされている。

しかし、情報の真偽なんかわからないままでも、できる事はある。
そういった情報を、「無視」する事だ。

正確には、「その情報が真実でも嘘でも、相手や自分(の振る舞い)には関係無い」という姿勢を持ち、善悪の見分けをつけて行動する事だ。

前述の例で言えば、確かに、ネットの情報を信じて侮辱してくる中には、デマを鵜呑みにしたような人も数多く見られる。しかし言ってしまえば、そもそもが私には関係の無い話だったり、「その情報が嘘でも本当でも、私を侮辱してOKなわけじゃありません」というレベルの話だったりするものがほとんどだ。

『どんな情報があったとしても、左右されずに、適切な行動を選択する。』

究極の反面教師としては、「ヒトラー閣下がこうおっしゃっている!」からと言ってユダヤ人迫害に走ってしまった、ドイツの黒歴史を思い浮かべてもらってもいい。もし私なら、仮に朝鮮民主主義人民共和国の総書記が「在日同胞諸君、日本人を嫌え!」とか言っても無視する。(絶対、する。)

・・・少なくともそうすれば、見ず知らずの人間に「お前は在日韓国人か。だったら犯罪者なんだろう」なんて、失礼な事を言わずに済むだろう。

※同性愛者の場合、「聖書」を理由に、キリスト教の一部宗派から差別されている現状がある。しかし上記のような理由から、そういった扱いが正当だとは思えない。誰がどこで、何を言っていたとしても。


【2】文句はボウズに言おう!

他の記事(⇨『 もう差別の話はしたくない。』等)でも繰り返し書いてきた内容だが、もし「誰か」が悪い事をしたとしてそれを責めるなら、その「誰か」を責めればいい。その対象を「同じ国籍の人」とか「出身国」にまで広げてしまっては、他人を巻き込み、理不尽に傷つけてしまう事になる。

例えば、「韓国人が嫌いだ」という人にその理由を尋ねた場合。非常によくあるパターンの一つが、「昔、韓国人にひどい目に合わされた。だから韓国人が嫌いだ」という理由付け。坊主憎けりゃ袈裟まで、っていうアレだ。

『そうですか・・・それは大変でしたね。でも、自分は"その韓国人"じゃないし、あなたに何もしていません。自分のしていない事で責められるのは納得できません。』

もし彼らの論理を借りるなら、私は「幼稚園時代に日本人からいじめられた」という経験を元に、「だから日本人は嫌いだ」と言える。というか日本人に囲まれて生きてきた以上、日本人に嫌な目を合わされた経験なんて、いくらでもある。―――それは日本人(例えば、あなた)にとっても、そうだろう。

しかし不思議な事に、「日本人に嫌な目に合わされたから日本人が嫌いだ」と言う日本人には、一度も会った事が無い。国籍が同じというだけで、どうしてこんな違いが生まれるのだろう?【3】で少し後述する。

ついでに書いてしまえば、もしあなたが韓国人から「昔(例えば朝鮮半島が「日本」だった頃)、日本人にひどい目に合わされた。だから日本人が嫌いだし、日本人のお前も嫌いだ」と言われたら、どう思うだろうか?けして、いい気持ちはしないだろう。―――私だって、しない。

『以前あなたにひどい事をしたのは、私ではありません』

残念ながら、例にあげたような形で、日本人を嫌う思考回路に陥ってしまった韓国人もいる。立場は違うが、日本人にもそういう人はいる。歴史が残した、暗い遺産だ。しかし大切なのは、そんな中で、あなたや私が、どう行動するかじゃないのか。

批判対象を「個人」から拡大するという事は、最後には「国の対立」までをも生み出す。そしてそれは多くの場合、あなたの頭の中に、作られてしまう。それは無関係な人々を傷つけ、傷つけた本人は「自分は悪くない」と自己正当化を続ける事になる。

一体、誰が得をするのだろう?ぜひ、挙手して教えて欲しい。


【3】《記号》をもっと人間あつかいしよう!

ここまで話してきた事が上手くいかず、「他人の情報を鵜呑みにして」「批判対象を広げてしまった」場合、人が人間として扱われなくなってしまう事がある。「○○人」という、ただの《記号》になるのだ。

例えば私の場合、在日韓国人だとプロフィールに書いていればそれだけで、見知らぬ人から唐突に「チョン」と呼ばれたりする。言うまでもなく侮辱語だが、そういう人はその言葉を、何の抵抗も躊躇も無く、人に向かって投げつける。そこに「言われた人がどう思うだろう」といった配慮は見当たらないし、実際に傷つき怒った相手を見ても、何も思わないどころか、「わぁー、こいつ、怒ったぞー」と反応がある事を楽しみ、さらに怒らせようとする人だって珍しくない。

その時、私は彼らにとって人間ではなく、《チョン》という記号なのだ。

日常生活ではちょっと使えないようなひどい言葉も、《記号》相手になら使える。なぜなら、自分は関係無いから。いくら相手が傷ついたとしても、自分が傷つくわけじゃないから。自分は人間で、相手は《記号》―――究極の《他人》だから。

ここに、前述した「日本人を嫌う日本人」不在の理由があると思っている。そういった取り扱いが相手が《他人》である事を前提にする以上、相手が自分と同じ属性を持っている場合には適用できない。
―――相手を攻撃すると同時に、自分も傷を負う事になるからだ。

《チョン》や《ホモ》、英語圏で言えば《ニガー》など…侮辱を込めて使われるこうした言葉たちは、おおよそ人間に向けて使われるべきものではない。使う人は《記号》に向けて使っているつもりでも、目の前には、血も通えば涙も流す、《人間》が立っている。

しかしそれでも、使う人はいる。

その事実に対して、ここで私にできる事は、ただ『願う』ばかりだ。

『どうか、あなたの目の前の人間を、人間として見てほしい。』


こんな馬鹿げた『願い』を掲げる人間が、世界には星の数ほどいる。
それが、笑えない現実だ。

そんな糞ったれな状況が、少しでも変わっていって欲しいと、心から思う。
その為にもし『願う』以外に、できる事があるとすれば。

私はあなたの、『協力』を求めたい。

あなたが私の考えに少しでも共感し、協力してくれるなら。
この記事への考えや補足など、ぜひ私にも教えていただきたい。

私は、「差別をしない」方法を探したい。
「差別をしない人」が増えるほど、差別は減ると、思うから。

どうか、よろしくお願い致します。

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