見出し画像

選択と選択と、選択。

今日、東京都では飲食店の時短要請が出た。期間はおよそ3週間。協力金も検討されているというが、その額は1日2万円。

それで助かるお店もあれば、
埋め合わせにもならないお店が山ほどある。

何日か前、「営業時間短縮による効果は疑われているため、要請の可能性は低いだろう。」といった旨の記事を見た。で、「そうだよね〜もうこれ以上要請できないよね。どうにか年を越せたらいいけど。」と、ホっとしていた矢先のこと。

可能性は全然、低くなかった。

なぜ、私が飲食店の営業自粛や時短要請に敏感なのか。

それは、私が今頃、現場の人間だったかもしれない可能性がとんでもなく高いから。そして今現在、飲食の現場で働いている元同級生の顔が浮かんでしまうから。

2019年の2月に退学するまで調理の専門学校に通っていた私。2019年の6月には、2年間バイトとして勤めていた日本料理屋から就職の話をいただいていた。心の底から大好きなお店で、貴重な20代の時間を捧げ、プライベートを犠牲にしてでも本気で修行しようか、と。

でも、もっと根本的に自分の人生を見つめ直して、私は"飲食を辞める"という選択をした。

その時、私はこんな…地球規模の大惨事を予期して今の生活を選択したわけじゃない。まったく別の理由があって、飲食の道を選ばなかっただけ。

でももし、あの時、"お店へ就職"という選択をしていたらどうだっただろう。もちろん、お店では一番下っ端。正直、板前1年目の小娘などいてもいなくても店は回る。そこへ未曾有の大惨事。

1ヶ月の休業(実際にしてたらしい)、酒があってなんぼの店で自粛要請、営業時間の短縮。ありがたいけど、多くはない協力金・助成金。鳴らぬ予約電話、埋まらぬ席、腐っていく高級食材たち。それでも変わらない、家賃や人件費などの固定費。

飲食店がコスト削減する時、一番手っ取り早いのが人件費だったりする。(飲食店に限らないけど)

もともと安い月給が、もっともっと安くなったりして。いや、それだけでは済まなかったかもしれない。

私は、どうなっていたんだろう。

この「どうなっていたんだろう」が、実際に飲食やホテルの現場にいる同級生の身に起きているかもしれない。これから頑張ろうと、人生を賭けて修行しに行った子もいる。語学を猛勉強して来日し、入学条件の厳しい専門学校を卒業して、やっとやっと憧れの現場で働き始めた留学生たちもいる。
心が、グッと重くなる。

今の私の仕事にだって影響が出てないわけではない。これからどうなるかも、正直危ういと思っている。

けれど今の私はというと、やろうと思えばいくらでもリスクヘッジができて、自分次第で自由自在。寝る間を惜しんででも努力すれば、その分ちゃんと返ってくることのほうが多い。柔軟だ。

この柔軟性を持つことが、飲食店に勤め、長時間労働・週休1日をしていたであろう私にはかなり難しかったはず。

そして、今の生活に安堵するのは簡単だ。影響の少ない場所で生き生きと生活をするのは、とてもとても、簡単。

だけど同時に、失礼な気がしてならない。安堵するのは甘えじゃないのか。そういう後ろめたさを最近はつよく感じてしまう。

「なんだろうこれは」とずっと考えていた。

だって、どこかで選択が少しでも異なっていたら、まったく違う今が絶対に目の前にあって。私の未来だったはずの場所に、今まさに立っている人もいる。しかもそれは、距離が近い人たちのこと。同じ教室で、学んでいたみんな。

そんな大切な人たちに、私はなにもできない。自分自分、自分のことばかりで本当に無力。

後ろめたさを感じているだけではダメだと思って、このツイートをした。どんだけバズったツイートより、今の私にとってこれは最重要。だからプロフィールに固定もしている。忘れない。忘れない。そしてちゃんと行動する。

ある選択が正しいとか間違っているとか、そういう話ではない。
そんな次元で話をするのはもうやめてほしい。

ただ、選択と選択と選択とが重なりあって今があること。その選択には自信を持ち、責任を負うということ。大切な人たちの選択を、私は尊重すること。

なにも間違ってないから、どうか生き延びてほしい。無理になる”前に”頼ってほしい。つよくてやさしくて頼りがいのある存在になりたい。

今日の選択が未来をつくる。生きる意味を軸に、私は明日も選択をくりかえしていく。そいうことを忘れたくない。

ふつうの暮らしを愛しながら、 東京のすみっこで猫たちと生活してます。 おいしいごはんとお酒が好きで、映画をたくさん観る🎥 年内に登山と釣りがしたい。