自分の言葉で話すこと

わりと真面目な文章になるけど
言いたいことなので自分で言おうと思う。

Twitter構文というものがあり、その中に
マックで女子高生が〜というものがある。

例を出すと

さっきマックで女子高生が「彼氏にするなら優しい男がいいよね」って話していて、いつの世も人間は優しい方がいいのは変わらんと思った。

というものである。形式で抜き出すと

さっきマックで女子高生が【したい話題】って話していて、【それについての主張、意見、感想】みたいな感じだ。

あまりにもTwitterで一時期バズりすぎて、見たことがある人も多いだろうし、この形式をベースにしたネタツイなども多い。

面白おかしく楽しむ分なら良いのだけど、わたしはこの形式のツイートがあまり好きじゃない。なぜなら、①汎用性が高すぎる、②キャッチーすぎるからである。

①汎用性が高すぎる
例ではマックで女子高生が〜にしたが、この形式は誰でも使える、夫が、娘が、ナンパしてきた男が〜など、誰に言わせることもできる。
これは結構イカつい。

後ろの話題や主張によって主語を恣意的に変えることは、いかちぃ。その主張したいこと以上の力や意味を持ちうるし、何より代弁させた側に本当に失礼だ。そいつを道具としてのみで消費するのはヤバい。普通に怖い。

これは、たとえ存在していなかったとしても同じで、なんなら存在しない方が邪悪だったりする。言わせたい主張ありきで架空の存在を作るな。普通に可哀想だ。作ったなら役割だけを求めるな。

②キャッチーすぎる
この形式の1番嫌なところはキャッチーでバズりやすい点である。

夫、子ども系は「うちの夫、子どもは〜」みたいなリプもしやすい。自分のことを話すきっかけとしてガンガン広まっていく。広まるたびに色々なものがくっついて、全く別のものに変わることもある。伝言ゲームですら難しいのに、個人の文脈に寄せたら当然に変わる。

くわえて、当人の主張じゃないからこそ、それがひとつの常識として語られているような(主語が所属しうるコミュニティに共有されている感覚のような)錯覚を引き起こしうるなぁとわたしは感じる。この錯覚もいかちぃ。いかちぃものは怖いのだ。

こういう形式は、やっぱり強いし真似しやすい。ゆえ手法としても広まりやすいんだろうなと思うけど、個人的にはあんま好きになれない。チート過ぎるからかもしれない。勝つためだけの手法に見えてしまうことがある。

自分の主張をしたいのであれば、やっぱり実存で殴って欲しい。自分の中の身体感覚を言葉に乗せて振りかぶってほしい。痛みを引き受けた一撃は喰らう時も出す時も、凄まじいものがある。わたしはそういうものに出会いたい。

素手同士の喧嘩の末にわかり合いにたどり着くことがあるように、きっと言葉にもそういう側面があるんじゃないかなと思う。自分で語ろう、自分で放とう、その先に分かり合いがあることを祈って。

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