【翻訳】The Future is the Past――未来は過去:加速主義の失敗 by Rosa Janis

ローザ・ジャニスは、〈加速主義〉と呼ばれるいくつかの異なる主張を含む知的流行について、主張の傾向別に議論を分類・整理し、それらの思想が持つ「未来へのビジョンの貧しさ」と「矛盾する信念」を明確化した。
加速主義は、いずれの分派も共通して、資本主義の存在を前提とし、資本主義の運動を加速させることで、解放へ至ろうと試みる。
しかしながら、解放運動は、資本主義の論理を内面化せずに、未来のビジョンを構築する必要があるとわれわれは考えている。

現在〈加速主義〉と呼ばれている思想と、20世紀初頭に現れた〈未来派〉と呼ばれるユートピア的な未来主義の思想の間には決定的な隔たりがある。それは、人間の持つ理性が資本主義がもたらす状況を克服できること、そして、最終的に人類そのものの生物学的限界を克服できるほどに、強力な思想となっているかどうかである。そして〈加速主義〉は、歴史の運動とその力が依って立つ、人間の理性の概念を欠いている。理性の歴史が要請する、資本主義の持つ根絶と再構成の性質――ドゥルーズの言う「脱領土化」――は、人間性だけでなく機関そのものも同時に破壊するのである。
人間の理性に対する根本的な見解の不一致は、いわゆる〈初期の加速主義〉と、〈現在の加速主義〉の間の類似性が、完全に皮相的なものにすぎないことを明らかにする。こうした哲学的見解に関する差異は、共産主義的ユートピアとサイバーパンク的ディストピアの差異でもある。〈初期の加速主義〉はテクノロジーによる限界の超越を目指したが、ニック・ランドから派生した〈現在の加速主義〉は非人間的な力を求め、その力によって、人間性を完全に消費し尽くすことを目指している。
そのため、ここでは〈初期の加速主義〉については〈現在の加速主義〉とは区分し、前者の概念を指し示すためのより適切な用語として、〈思弁的ユートピア主義〉という言葉を採用する。マルクスとエンゲルスが、かつて〈科学的社会主義〉への反対者に対する蔑称としてその言葉を使ったように、ユートピアという言葉に疑問を持つ向きもあるだろう。しかしながら、マルクスもまた、階級闘争の唯物論的領域における説明には、理想主義的なヘーゲルの〈精神〉の概念を用いているのだ。
ここでわれわれが言う〈ユートピア主義者〉という言葉は、必ずしも未来派やオカルト主義者を指すわけではない。われわれの使う〈ユートピア主義者〉とは、唯物論的な共産主義者を説明する言葉である。スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)の作家としての〈思弁的ユートピア主義者〉たちはすでに、現存する社会関係とテクノロジーの力学について引き受けたうえで、それらの要素を、別様の世界の可能性を想像する素材としている。
一般的に、社会主義に対する理解は、「歴史的事実として経験された社会主義」を通して構築されているが、もう一度マルクスとエンゲルスに立ち戻り、彼らが『ゴータ綱領批判』の中で展開した、空想的社会主義と科学的社会主義の定義とそれらの差異を見直す必要があるかもしれない。歴史的事実として、ソ連の集権的計画経済は失敗に終わったが、その失敗は共産主義そのものすべての失敗を意味しているのではなく、共産主義という大きなプロジェクトを完遂するための別様の手段を構想すべきであることを意味しているのである。

■左派加速主義

〈思弁的ユートピア主義〉という概念について、「それは〈左派加速主義〉と一体何が違うのか?」といった疑問が出ることは想像に難くない。たしかに左派加速主義と呼ばれる一派には、一定の興味深い潮流が生まれつつあるものの、それはまだ、現時点ではランド派加速主義の強い影響下にあり、哲学的思想潮流としての論理的整合性のとれている、強い思想とは言い難いように思われる。
左派加速主義者たちは、資本主義のもたらす〈加速的進歩〉の速度というものは、市場に対するフェティシズムによって生み出された幻想にすぎないことを理解しているが、そうした〈市場フェティシズム〉と〈加速主義の可能性の中心〉が、切り離せないものだと思いこんでしまっている。資本主義なくして加速はない――それこそがすなわちニック・ランドの思想なのであり、ランドは「加速主義についての手短なイントロダクション(a quick-and-dirty introduction to accelerationism)」の中で、次のように指摘している。

「ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズは、2013年に発表した「加速派政治宣言」において、耐え難い――統合失調症的とさえ言える――アンビバレンスを解消しようと試みた。「加速派政治宣言」は、資本主義者たちによる加速主義である〈右派加速主義〉に対して明確に異論を唱え、「反-資本主義者」のための加速主義の思想――対立的な概念としての〈左派加速主義〉を確立することを目的として発表された。このプロジェクトは――予想通り――イデオロギー的に洗練することよりも、加速主義者たちの問いを〈再アニメ化〉するという点において成功したのだと言える。資本主義と技術加速の間の境界は、人為的な仕方でしか引くことはできないのだということを、彼らは明らかにしたのである。彼らが「加速派政治宣言」の中で暗黙的に要請したものとは、ソビエト流の経済政策のない、新しいユートピア的管理体制、すなわち、空想的で理想主義的な〈新しいレーニン主義〉にほかならないのである」

ニック・ランドのこの指摘は正しい。これらの〈左派加速主義者〉たちは、加速主義というよりもユートピア主義の思想に近しい。この指摘は、左派加速主義はなぜ右派加速主義と目指す先が異なるのにもかかわらず、自分たちを加速主義者と呼ぶことをいとわないのか、根源的な部分に対しての疑問を呈している。

ベンジャミン・ノイズは、すべての加速主義について総じて、「大学院障害」と呼んでいる。加速主義とは、大学院生が労働市場に適応できないことへの合理化として、古い世界を破壊する〈加速〉のイメージを称揚する、一種のイデオロギー的ストックホルム症候群である、とノイズは指摘する。
そしてこれこそが、左派加速主義者がランドの哲学に依存する理由である。
また、そうした合理化は、ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズの思想に対して期待されるものでもあり、同時に、彼らを最悪の空想的理想主義者に貶める可能性のある問題でもある。
ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズは、『未来を発明する(Inventing the Future)』の6章で、以下の4つの基本的要求のリストを提示している。彼らによればそのリストは、それらの要求が「非改革派による改革」であることを意図して作られている。

1. 生産の全自動化
2. 労働日数の短縮
3. ベーシックインカムの支給
4. 職業倫理の縮減

ここにはいくつかの問題があるが、最大の問題は、4つの要求のうち3つは、実現のためには産業の国有化という政治的改革を実行する必要があるために、「非改革派の改革」として実現することが不可能であるということだ。ここでベルンシュタインの唱えた〈進化論的社会主義〉と呼ばれる妄想がふたたび現われる。そこでは、改革によって、現在は漸進的に社会主義に変容させていくことができる、と考えられる。
上記の彼らの要求を鑑みると、資本主義は加速しているのではなく、むしろ減速しつつあるのだと彼らは認識しているように思われる。つまり、投下された労働に対して収益性が低下しているという経営上の危機への対応として、今よりももっと速かったころの資本主義と同様の収益性を獲得するために、生産の自動化と労働時間の短縮が求められるのだと。
しかし、これらの要求がどのようにして国家規模で実現可能となるのかといったプロセスは、明確化されていない。実現のためには資本家との政治的な交渉が必要となり、わずかながらも革命が必要となるが、その点について現時点では言及されておらず、彼らの要求のみをもって資本家たちを説き伏せることは難しいと考えられる。彼らがこのままの路線で進む限り、彼らは思想的な矛盾をかかえた一派であることに加え、政治的に無力な存在として見なされ、労働党の仲間の一部と位置づけられるにとどまるだろう。

■無条件加速主義

無条件加速主義、または〈U/ACC〉と呼ばれる加速主義は、おそらくランド派加速主義の思想に最も忠実な潮流の一つであると言える。その思想は、人間性と政治的統治の可能性を否定し、サイバーパンク的黙示録の訪れを幻視する。

〈U/ACC〉のブログ運営者たちの特徴として、難解で冗長、暗号的でときには不可解にも思えるような文章でブログを書く。――ところでこうした文章をブログに投稿し続ける理由はどこにあるのだろうか。彼らはブログの中で、何もしないことを呼びかける。このままで行けばわれわれは管理主義的なディストピアに向かうと彼らは考え、そうした未来に警鐘を鳴らす。そうした未来を避けるためには、何もしないまま、なすにまかせよと彼らは主張する。しかし、筆者は疑問に思うのだが、そうした行為は資本主義を加速させるのではなく減速させるのではないだろうか。彼らがディストピアと呼ぶものは、現在人類が直面する貧困や環境破壊等の課題について、資本主義を利用して改良主義的に調整するものであるように読める。彼らはそうした調整よりも、資本主義の中でゆっくりと、ただ破滅していくことを望んでいるように読める。

〈U/ACC〉における「大学院障害」は、この点において明確に現れている。彼らが言う、われわれが向かいつつある、「管理主義的ディストピア」の内容が、彼らにとっていささかも魅力的でもなければ興味を喚起するようなものでもないということ。ウォルマートな駐車場に住むホームレスについて考えることに、彼らはまったく興味が持てないということ。
「大学院障害」について、もう少しこみいった分析を加えるために、ここでマルクスの概念を引きたい。マルクスは「人間は環境によって規定されるが、同時に環境を生み出す存在でもある」と言っている。マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中で、「人間は自らの歴史を作り出す存在である」と書いている。「だが、それが彼ら自身を喜ばせるものとは限らない」とも。人間は、多かれ少なかれ統治機関を作り出すが、それはそれ自体を制御する役割も担っており、歴史全体におけるフィードバック・ループの一部と見なすべきだろう。
しかしながらマルクスは、われわれ人類が種として発展し、この大いなるフィードバック・ループを自らの意志でコントロールすることができるようになったとき、われわれは共産主義のプロジェクトを完遂することができるだろうと予測した。ドイツ・イデオロギーは、共産主義と人間理性による統治の関係を反映した思想なのである。マルクスは次のように書いている。

「この段階に至ってのみ、自己活動は唯物論的生活と一致する。ここで個人は完全な個人となり、完全な個人は、自然が課すあらゆる制約事項の排除を行うことが可能になる。労働が自己活動へ転換していく過程は、かつては制約の大きかった性交という行為が、現代では個人的な活動へと転換されていることを省みることで、容易に想像ができるようになるだろう。統一された複数の個人による総生産体制は実現され、やがて私有財産は終焉を迎えるだろう。歴史をあとから振り返ったとき、ある時代を象徴する特徴が、まるで一時的な偶然のように見えることがあるが、現代という時代において、団結せず孤立した個人のありかたと私有財産制度のありかたもまた、偶然のものに見える日が来るだろう」

ここで共産主義は、すべての自然の制約から個人と人類全体を解放する手段として、ヘーゲル=マルクス主義哲学が目指すプロメテウス主義のミッションを果たすものと位置づけられる。
これらの見方は、人間性と統治機関に関する非現実的で楽観的なものであると思われるかもしれないが、信頼に足るエビデンスが存在することを加えておきたい。
たとえばエピジェネティクスは、遺伝的形質の表出の有無は、環境的要因に左右されることを明らかにしている。つまり、「遺伝は運命である」とされる一方で、遺伝形質が個人の特性として表れるかどうかは、ある程度人為的な制御が可能であることを示しているのだ。現代の研究ではまだ、どのような外的条件がどのような遺伝的特性のオンとオフを引き起こすかといった、具体的な原因・結果の関係は明らかにされていないものの、1990年代まで強く信じられていた、遺伝がすべての特性を決めるのだという、遺伝的決定論を覆す価値は十分にあるものと考えられる。これは単なるイデオロギーではなく科学的発見であり、そして科学とは支配階級のためのイデオロギーであるわけではない。こうした発見は、人間は自然制約そのものを大きく変える認識の潜在能力を持ち、また、それによって人間自らの性質をも変えうる潜在能力を持つという、マルクスの主張を下支えするものだと見ることができる。

筆者は、〈U/ACC〉のような反人道主義や決定論を推進する人々が、機関の統治からまぬがれている、あるいはまぬがれうるとは考えていない。彼らはブログに長文を投稿するが、そうすることで、それらのブログを読む人々に何らかの影響を与え、支配しようと考えている。それはある種の統治であるわけだが、彼らはなぜ、自分たちにそれができると考える一方で、人類全体の運命に対しては統治の可能性を棄却しているのだろうか。彼らの主張を信じるならば、それは決定論の転覆の可能性を信じることもできるということを意味し、要するに、彼らがブログに投下する時間は無意味なものだということになる。

あなたがもしも〈U/ACC〉の信奉者であり、大学院でのメディア研究に学費をつぎこんだ大学院生なのだとしたら、あなたは、自分が『アンチ・オイディプス』を読むふりをして過ごした時間で、もっと違うことができたと思っていることだろう。あなたは無意味なワード・サラダをTwitterに投稿し、そのワード・サラダを天才性だと勘違いする人々の支持を受け、2000かそこらのフォロワーを得ることができるかもしれない。
しかし、すべてのワード・サラダが投稿し尽くされたとき、未来が打ち捨てられた荒野になっていたとしたら、そのときあなたは、未来の子どもたちになんと声をかければいいのだろうか。子どもたちに「地球が滅びつつあるときに、あなたは何をしていたのですか?」と訊ねられたら、あなたはなんと答えるのだろうか。
筆者の目には、無条件加速主義者たちは、WordPressを用いて、彼らのちょっとした数のフォロワー数とひきかえに、単なる混乱と無能感を拡散しているにすぎないように見える。

■右派加速主義

われわれは次に、〈現在の加速主義〉の始祖である理論家、ニック・ランドに目を向ける。ランドは「サイバネティック文化研究ユニット(Cybernetic Culture Research Unit, CCRU)」の設立者として知られており、その存在は生きる伝説のようなものとなっている。ランドの著作のすべてにはニヒリズムが通底しており、そこには娯楽的な価値があった。ランドはその〈学術的に基礎づけられたニヒリズム〉によって、読者にある種の「知的エンターテイメント」としての快楽と興奮を与え、熱狂的なファンを獲得したのだ。
若い大学教授が床に寝そべり、高速ブレイクビーツから成る音楽を大音量で流しながら叫んでいる――これはたしかに面白い光景だと認めざるを得えない。そうして、学生たちはニック・ランドの虜になっていった。
ニック・ランドの教え子たちは、ヒッピーたちの平和と愛の時代が終わり、代わりにサイバーパンク・ディストピアの洗礼を受けた世代で、一般に、ジェネレーションXと呼ばれる世代だった。ジェネレーションXの若者たちは、それまでの人生で、1960年代や1970年代のヒッピーたちのような急進的な主義・主張やLSDといったアンダーグラウンドな文化には触れてはおらず、無菌室のような過剰に清潔化された空間で育っていた。思想に対する免疫のない彼らは、大学で出会ったランドの影響を正面から受け、次々と怒れる保守派へと変貌していった。
ランドは、自らの評価の背景にそうした事実があることについては自覚しているが、それを事実として明示的に認めることは好まない。そうした事実に自覚的であるからこそランドは、彼の言う〈大聖堂〉への対抗概念として、すでに過去のものとなったはずのリバタリアン主義や君主制を持ち出し、それらの古臭い思想に対して〈新反動主義〉〈暗黒啓蒙主義〉といった新たなキャッチコピーを付与し、異なるものとしてプログラムを組み立てることで、自らの思想の新規性を強調しているのだ。
〈大聖堂〉とは文化的マルクス主義に陰謀論をかけ合わせたようなランド独自の概念で、「すべての人間は平等である」という民主主義的な神話をベースに、戯画化された左派ネットワークの姿として描かれる。〈大聖堂〉は、公共選択論のような自由主義的な政治科学の理論を取り上げ、民主主義によるあらゆる主体の権利の増大は、利益団体の力を拡大し、政府の規模を拡大し、その結果として社会全体を貶めるものであると考えられる。〈大聖堂〉のような無条件な民主主義は、専制政治の乱立と社会の解体を引き起こし、世界は民主主義の〈ゾンビ〉たちのものとなる――ニック・ランドは『暗黒啓蒙』の中で〈ゾンビ・アポカリプス〉と呼ぶ概念を提示し、上記のような議論を展開している。
しかし、ランドが言うように、自由と平等から成る民主主義は本当に政府の拡大をもたらすのだろうか。実際のところ、そうした事実は少ないように思われるし、ランドのテクストにも経験的事実からの引用はない。
このように、ニック・ランドの主張には一貫して経験的データが不足している。むしろ彼のテクストには、データによって主張を根拠づけることに対する恐れのようなものさえ感じられる。
それは、「セオリー・フィクション」と彼が呼ぶ小説ジャンルの確立を目指して、彼が著作権法に抵触するようなコピーアンドペーストだらけの文章を書いていた青春時代ならばまだ許されるような甘えだが、三文SFの領域外に出て同じようなことをすると、お笑い草以外の何物でもない代物となり、その結果「ゾンビ・アポカリプス」のようなナンセンスな概念の数々を生み出すこととなる。
少しのデータを確認するだけでも、ランドの展開する物語が矛盾に満ちていることはわかる。たとえばアメリカ人の約45%が投票しない(またはできない)現状があるにもかかわらず、ランドは民主主義の〈ゾンビ〉たちが資本家から富を奪うことを危惧している。さらにおかしなことに、ランドは民主主義の〈ゾンビズム〉化における、最悪な担い手として黒人と移民を挙げているが、彼らは投票率の最も低い層に属しており、むしろ民主的な政治参加が実現されていないことが社会問題化しているのは周知の事実である。
こうした、ランドの言う〈ゾンビ〉層の政治離れによって、西欧世界における福祉政策は衰退しつつあるにもかかわらず、ランドはそれを踏まえていない。ビル・クリントンのような〈大聖堂〉に属する人物が、〈ゾンビ〉層からの票を失うような「福祉の削減」政策を行ったのはなぜなのか、あるいは〈大聖堂〉の中に、他の追随を許さないほどの巨大な利益団体が所属している場合はどうだろうか――。そのとき、〈大聖堂〉はおそらく、資本家階級のためだけのネットワークとなるだろう。
要するに、ニック・ランドが自らの思想を確立するために打ち立て敵視している〈大聖堂〉なる組織など、この世界のどこを探しても存在しないのだ。

ニック・ランドは、自分の主張の整合性や歴史的位置づけに関する理解もなければ興味もないように思われる。彼がやっていることは〈加速主義〉概念の濫用であり、〈加速主義〉の一貫性を破壊することにほかならない。思春期の彼は、サイバネティックによって実現された自由で理想的な市場を夢見ていたが、今では自分自身をニクソンに同調させている。彼は、混沌とした思春期のニヒリズムと、あとから取って付けたような貧しい保守主義の間で、精神的に混乱しているように見える。
ランドは2017年のインタビューにおいて、「今後の新反動主義の展開には構想がある」と言い、「それは中央集権的で官僚的な方法ではないが、あなたにもある程度の政治的介入が認められるようなものだ」と話している。
ランドは2018年現在、チリの――アジェンデよりもピノチェトに近い――空想主義的な独裁型の統治プログラムを模倣したいと構想しており、そうした観点では、今のランドはもはや、左派加速主義者よりもずっと、当初の加速主義の思想から遠く離れたところにいるようにも思われる。

ニック・ランドは混乱し続けているが、しかしだからといって無視できる存在というわけではない。
1960年代のヒッピーたちは、少しずつゆっくりと保守へ転向していったが、そうした保守主義の徴候は、彼らの文化が、表面的には最も急進的で反体制的に見えていたころからあった。
ニック・ランドはCCRUの同胞たちとともに、死と破壊、ニヒリズムについて議論したが、その本質は、ただ単にドゥルーズのテクストに基づくワード・サラダと戯れ、それによって自己肯定感を得ながら、新自由主義へのフェティシズムという波に乗り、現状を肯定しているにすぎなかった。
彼らはドゥルーズ・ガタリをあえて誤読することで、ドゥルーズ・ガタリを読んでいるつもりで、シュンペーターやハンス=ヘルマン・ホッペに至る、一直線の道を整備していたのだ。

■加速主義のための社会基盤

現代の加速主義が空虚な政治思想なのかどうかについては検討を続ける必要がある。加速主義が空虚だとして、それが多くの人を惹きつける魅力は何なのだろうか。「ニュー・ステイツマン」や「ガーディアン」といった大手メディアが、不勉強な大学院生と疑似知識人による、ゴミ溜めのようなブログの山から成る、まったく体系立っていない曖昧なドグマについて取材し、多くの記事を書いているのはなぜなのだろうか。
それは、政治思想史において左派が辿った経緯を見れば、自ずと明らかになることだ。
CCRUがプレゼンスを増していった背景には、ソ連の崩壊や中国における鄧小平の改革、世界中でほぼ同ペースで進行した社会民主主義のゆるやかな衰退がある。左派にはもう可能性は残されていない、という統一的なムードがあった。唯一可能性があると思われ、唯一残された道であるように思われたのは、市場の自由化の波に乗ることだった。道を見失った誰もが、その道が正解であることを神に願うようにして、その波に乗っていった。

資本主義者たちのストックホルム症候群は、それから今に至るまで、依然として継続している。しかしおそらく、加速主義も社会民主主義と同様の失敗を辿るだろうとわれわれは考えている。そして多くの加速主義者たちはそれに気づいていない。

現在、市場原理主義的な政策が推進されつつある社会にあっても、市場が要請する形で生まれるイノベーションの数は少なくなってきている。加速主義者たちの目論見に反して、イノベーションは減速しているのだ。
そして加速主義者のうち、左派加速主義者の一部だけが、こうした徴候に気づいている。左派加速主義者は、こうした減速に対して資本主義的な構造改革によって抗うのではなく、新しい種類の社会基盤――ある種、社会民主主義的とも呼べる制度――を新たに構築することで抗おうとしている。

■ニヒリズム的ユートピアと未来

CCRU以降の加速主義の全体像を概観すると、いずれの分派についても共通して言えるのは、それらが空想主義を基調としているということだ。それらはいずれも、重度のニヒリズムに陥った人々のためのユートピア的なプロジェクト――未来に至る道が、人間性の破壊のプロセスとしか見えなくなった人々、ユートピアを信じられなくなった人々のためのユートピア的プロジェクト――の完遂を目指している。
若い大学院生たちが90年代という短い時代だけを見て考えついたことは、貧困と環境破壊の災禍の中で、サイバーパンク的な選抜のプロセスだけが、過去の古き人道主義を排し、世俗的な文化の中で生き残ったキリスト教の残党を破壊するという、ニーチェ主義を完遂できるという幻想だった。
彼らは90年代に、その時点ではもう過去の遺産となっていた初期のハッカー文化やSF映画に触れ、そこにある、すでに失われた未来を歓迎した。
彼らは生きる価値のある未来を構築するために過去の歴史を振り返るのではなく、SF映画の中に描かれた、決して訪れることはなかった未来の災禍を懐かしんだのだ。

現実世界において、彼らは『ターミネーター』が約束した派手な未来を経験することはない。脱工業化が進むラスト・ベルトの町並みを眺めても、そこに『ブレードランナー』のような未来が訪れることはない。その町には、幽霊のようなアルコール中毒者やオピオイド中毒者だけが今も残り、さまよい歩いている。

ゆっくりと、苦痛を伴いながら、世界は衰退してゆく。

未来を構築するために過去に目を向けるのなら、人類が直面した醜くつまらない歴史的事実よりも、かつてのスペキュレイティブ・フィクションに描かれた、人類が生きるに値する、どこにも存在しない理想郷のほうを選んだほうがいい――それが加速主義者たちの思想なのである。



※本記事は、原著者許諾のうえCosmonaut "The Future is the Past: The Failure of Accelerationism" を抄訳したものです。
(原文中、「右派加速主義」の章にあるニック・ランドへのインタビュー引用箇所を、本記事では省略しています)


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樋口恭介

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