【不定期連載】失われた未来を求めて(4)

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多くの物語には人間が登場する。一般的には人間が登場するのが物語だとも思われている。しかし全ての物語がそうであるとは限らない。人間が登場する物語が存在するのと同様に、人間が出てこない物語もまた存在する。
たとえばSF小説で言えば、最も代表的かつ過激な「非-人間主義」的な作品として筒井康隆『虚構船団』が挙げられるだろう。1984年に書かれたその実験的なSF小説に、人間は一人たりとも登場しない。人間の代わりに登場するのは、文房具たち(と、文房具たちの宿敵とされるイタチたち)である。
「まずコンパスが登場する。彼は気がくるっていた」と始まるその小説では、多くの文房具たちによる、宇宙と虚構を舞台にした壮大な――旧約聖書を始めとする多くの神話を下敷きにした――世界の破滅と再生の物語を繰り広げられる。

『虚航船団』の登場人物/登場文具は非常に多く、機械的に列挙すると次のようになる。
赤鉛筆、メモ用紙、スクラップ・ブック、毛筆、輪ゴム、墨汁、コンパス、セロテープ、大コンパス、ディバイダー、大学ノート、ナンバリング、糊、日付スタンプ、ホチキス、消しゴム、画鋲、25種一組の雲形定規、インク、分度器、三角定規(兄)、三角定規(弟)、インク消し、赤インク、虫ピン、ダブル・クリップ、ペーパーナイフ、パンチ、チョーク、肥後守、鋏、ノギス、ルーペ、曲線定規、カッターナイフ、封筒、便箋、金銭出納簿、ピンセット、Gペン、比例コンパス、鉛筆、吸取紙(反応炉要員)、吸取紙(端末機器要員)、筆立、ケント紙、カブラペン、羽箒、青鉛筆、ブックエンド、ちり紙、スタンプパッド、ペンタグラフ、羽ペン、硯、ペン皿。
そしてこれらの文房具たちは一つ残らず気が狂っている。赤鉛筆は偏執狂であり、メモ用紙はサディストであり、墨汁は死体愛好家である。糊は異常性欲者で、日付スタンプは正確な日付を知らず、消しゴムは自分のことを天皇だと思いこんでいる。等々。以下文房具の数だけ続く。

文房具、人間が見る世界とは異なる世界を持つ物たち。外部にある物。それらは、無数の引用から成る多重化された虚構の宇宙の中で、多種多様な複数の神々と重ね合わされる。人類があずかり知らぬ宇宙のどこかで、文房具たちは文房具たちの世界を持ち、文房具たちは文房具たちの未来を担い、あるときは神となることで、旧い世界を破滅させ、新たな世界を創生している。
人間による観測有無とは関係なしに、独立して実在する文房具たち。各々の場を有し、各々の宇宙を有し、各々の世界象を有する文房具たち。机の上にごろごろと転がっている、彼ら文房具たちの実在する〈生〉のための物語――『虚航船団』とはそういう物語である。そこには生の多様な姿が提示され、世界の多様な姿が提示される。世界認識における人間中心性が相対化され、多元化される。宇宙は人間だけのものではないのではないか? 文房具にもまた、文房具の宇宙とも呼べる場が広がっているのではないか? 『虚航船団』はそうした思索を促進する、紛れもない「スペキュラティブ・フィクション」としてのSF小説なのである。
そして、『虚航船団』などのスペキュラティブ・フィクションが上記の通り提示してきたような、「物の実在性」について考察する哲学もまた、近年になって登場してきている。それは、「スペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論」と呼ばれる思想である。

スペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論。それは「人間中心主義」の後の時代に現れた、脱-人間中心主義の思想、あるいは反-人間中心主義の思想。これまで顧みられることのなかった、無数の実在する物たち――〈オブジェクト〉たちのための思想。
カント以降の哲学において、基本的に世界は、人間の触れることのできない「物自体」と人間の触れることのできる「現象」によって構成されているとの図式が採用されてきた。私たち人間は身体を持ち、身体機能によってフィルタリングされた「認識」に基づいて「物自体」に触れようとするが、畢竟「物自体」に触れられることはなく、「物自体」の手前で発生する――人と物との間で相関的に立ち上がる――「現象」に触れ、私たちは世界に触れるのだと、カント以降の哲学の枠組みは説明してきた。現象学も、実存主義も、構造主義も、基本的な骨格はカントの図式に則っているのだと、スペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論は指摘する。
そして、スペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論はそうした認識-現象のモデルを「相関主義」と呼んで批判する。スペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論は、現象は認識との相関によって存在するのではなく、現象それ自体もまた、その他の実在と同様に、接続されつつも分け隔たれた、独立した存在としての実在的性質を有するのだと主張する。
スペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論という名称は、2007年4月にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで行われた学術会議から取られており、主な論客として知られるレイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、カンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマンの四名はその会議における発表者であった。そのためスペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論と呼ばれる思想は――反カント・反相関主義・反人間中心主義といった共通点は見られるものの――、体系だったものではなく、あくまで四人の発表者の傾向を指すものである。そこではブラシエの超越論的ニヒリズムやグラントの超越論的唯物論、メイヤスーの思弁的唯物論やハーマンのオブジェクト思考存在論など、それぞれ微妙に異なる主張がなされているのだが、ここでは一つの例として――四人のうち、スペキュラティブ・リアリズム運動を担うことを自覚的かつ明示的に引き受けた唯一の思想家でもある――グレアム・ハーマンのオブジェクト思考存在論の概要を確認しよう。

グレアム・ハーマンによって主張されたスペキュラティブ・リアリズム/思弁的実在論――オブジェクト思考存在論。そこではまず、あらゆるものは〈オブジェクト〉であると定義される。郵便箱、電磁波、時空、イギリス連邦、命題的態度まで、物理的なものであれフィクション上のものであれ、すべて等しく〈オブジェクト〉と呼ばれ扱われる。ハーマンは言っている。
「哲学は、反オブジェクト指向の企てとしてはじまった。だがそもそも人間が日常的に経験する世界は、まとまりをなしたさまざまなものへと断片化しているように思われる。花や星々、野生動物といった自然におけるオブジェクトもあれば、海賊船から銅山へとおよぶ人工的なオブジェクトもある。どちらのタイプのオブジェクトであれ、そのサイズは広範囲におよび、微小なものから巨大なものまでさまざまである。このようにわたしたちは、日常生活においてたえずさまざまなオブジェクトを経験している」(グレアム・ハーマン『オブジェクトへの道』)
ハーマンの基本的な着想は上記の通りである。ハーマンは、人間も文房具も、あるいは椅子や机、机の上のバナナやマッチ箱、煙草、その他あらゆる事物は、相互に無関係なまま単に存在する〈オブジェクト〉であると主張する。ハーマンによれば、〈オブジェクト〉とは、ひとまずはなんであれ統一性をもつ存在者であり、世界のうちに物理的に存在するものも、単に精神のうちに感覚的に存在するものも、実在的性質を持ったものとして定義することができる。そして〈オブジェクト〉は、素朴に実在するとは別の仕方で、実在的性質を持って人々に働きかける。重要なのはその点であり、重要なのは〈オブジェクト〉たちそれ自体が、人の認識からは退隠しつつも人の心に働きかけ、その結果として、ある特定の独立した心的現実を生み出し、現実を複数化させることなのだ。ハーマンは次のように言っている。
「フッサール現象学における「形相」の考察をとおして、感覚的オブジェクトはつねに実在的性質をもつという奇妙な事実があきらかになった。わたしたちがなにか適当な怪物を考えだしたとしても、それだけではただちに実在的オブジェクトを生み出したことにはならない。ところが実在的性質であれば、そうするだけでただちに生み出したことになるのだ。なぜならユニコーンやドラゴンは、わたしの精神のうちに存在し、わたしの気分に働きかけているという理由だけで、ただちに実在的であることにはならないのだが、それでもそれらは実在的性質をただちに有するからである。わたしたちは、ユニコーンやドラゴンといった、精神のうちの虚構的存在にかんして、なにがそれらの決定的な特徴であり、「形相」をなしているのかを、けっして正確に述べることはできない。そうした特徴は直接的なアクセスから退隠してしまい、どんなに分析や解釈をくわえたとしても、それを超え出てしまう。まさにこの事実こそが、こうした特徴を――それが非実在的事物(たんなる感覚的オブジェクト)に属すのだとしても――実在的にするのである」(グレアム・ハーマン、前掲書)
〈オブジェクト〉たちは分析や解釈を「超え出」る。感覚的オブジェクトは、人間の認識の内にありながら、独立した実在的性質を以て、アクセス不可能性へと退隠するのだ。そこでは人間中心主義やカント的相関主義とは異なる、新たな人と物との関係の形が示唆されている。無数の〈オブジェクト〉たちの各々の世界。それは、互いに干渉しながらも個々の独立性を保ち続ける。無関係のままの関係性を築いていく。あるいはこうも言い換えることができる。〈オブジェクト〉たちは、部屋に引きこもりながら他者と出会うのだ。
〈オブジェクト〉たちは引きこもる。〈オブジェクト〉たちは彼らの自室のベッドで眠る。〈オブジェクト〉たちは夢を見る。彼らはそのとき、互いにどんな夢を見ているかは知らない。そこには〈この現実〉から〈あの現実〉への裂け目がある。〈オブジェクト〉たちは、互いに、そこに裂け目があることだけを知っている。〈オブジェクト〉たちは自分の世界の裂け目を通して、他者の世界の裂け目を思うのだ。それはまるで、『虚航船団』において、各々が各々の狂いを生きながら、同じ宇宙船に乗って旅を続けた文房具たちのように。

最後にもう一度、『虚航船団』の世界に戻ろう。『虚構船団』の最終章「神話」では、長い航海を終え、宿敵であるイタチたちとの戦争を終え、文房具たちは絶滅し、そして最後には、生き残ったわずかなイタチと、新たに生まれた文房具とイタチの混血児――文房具でありながら文房具でなく、イタチでありながらイタチでないもの、文房具でありイタチであり、またそうではないもの、中間的であり、論争的であり、またそうであるとも限らないもの――が残された光景が描かれる。
長い『虚航船団』の物語は、世界の破滅のあとの世界にあって、あてのない未来に向かってどのように歩んでいけばよいかを不安に思う、イタチの母親と混血児の会話によって終えられる。
その会話とは、次のようなものだった。
「「ねえ。おまえはいったいこれから何をするつもりなんだい」息子はやっと顔を上げる。母親を見つめるその眼は点いていないランプ玉のようでまるで何も見ていないかのようだ。「ぼくかい。ぼくなら何もしないよ」彼はしばらくしてから鈍重に聞こえる低い声をのどの深い底から押し出すようにして答える「ぼくはこれから夢を見るんだよ」」(筒井康隆『虚航船団』)

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樋口恭介

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