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正直、醒めちゃう、ドキュメンタリー。

 それ自体は感動のドキュメンタリーだった。参加した皆さんは口々に感動の言葉をいい「よかった」という。それを否定する気はほんとうに、全くないことだけは言っておきたい。そうでしょう、そうなんでしょう、と全く同意。しかし、私はその場にいなかったし、それに参加もしていなかった。参加できていれば同じような感動は得られたと思うけれど、それが終わってから、後から、こんな素敵なことが、素晴らしいことがあったんだよー、と見させられても、「う、うん、よかったね」としか思えなかった。

 それは一本の映画のようになっていた。始まる前の不安、想定内、想定外のトラブル、みんなで乗り切った大波。やりきった最終日。それを見た人たちも「感動しました!」「涙がでました!」と言っていたことにちょっと違和感?を覚えてしまった。感受性が豊かな方なのかな。それとも私がひねくれているか、冷めきってしまった人間なのか。あんまり正直なことを書くと本当に水を差すような気持がして、私は何も言えなかった。もし、時間がさかのぼれて、それに私も参加できることができたなら(おそらく時間がさかのぼれたとしても諸事情で参加は難しかったと思われるけど)素晴らしい感動を得られたのではないかと思う。

 そこに参加をした、体験をした人たちは大きなものを得られたであろう。しかし、私も含めてその場にいなかった人たちはその体験の半分も得られていない。感動も半分以下だ。

 その映像が感動に寄せすぎていたからかな。「感動したよね!」「よかったよね!」みたいな、押しつけがましく感じるところがあったからか。あるいは、そこに参加した人たちが改めて見返して感動を再確認するためのものだったのを、横から勝手に第三者の私がみたから、というのが原因か。極端な例だと、他人の結婚式のムービーを見させられているような、そんな感じ。(自分で言っててなんだけど、そこまではちょっと言いすぎかな。でもわかりやすい、伝わりやすい、かな)

「当事者」って意識が改めて大事なんだな、と思った。わずかでもそれに自分がかかわっていれば受け止め方もだいぶ違ったんだろうけど、これっぽっちもかかわっていないとこうも冷めてしまうものなのか。

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