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文章の価値合理性を考える マックス・ウェーバーサラダ記念日

世の中には2通りの人間がいる。世の中を甲乙2つにスッパリ分けることができる者と、そうではない者だ。

なんて発破をかけましたが、その実矛盾僕はなるべく後者でありたいと願っています。

不要不急の文字の羅列をあえて生み出すことに余念のない僕らの(というか僕の)ための道標。表現でお金をもらうすべての人が最初に激突する(であろう)違和感の壁の正体を考えてみたいと思います。

Q1. なぜ人は書きたがらないのか

ありがたいことに、文章を書くだけでお金を貰えることがあります。こんなにありがたいことはありません。どうしてそんな不思議な金銭の授受が発生するのでしょうか。

A1. 面倒だから

つまるところ需要があるのです。文章が足りない。書き手が足りない。必要だけれど、書きたがる人が居ないのです。どうやら文章を書くのは面倒らしい。

Q2. なぜ僕らは書きたいはずなのに苦しいのか

書きたい。文章を書きたい。

それも可能であるなら、自分のことを語りたい。自分の流儀で筆をとりたい。自分にしか書けないことーーが、あるかもしれないと信じてーーを書いてみたい。そうはいっても簡単ではありません。

「それを書いて、誰がどうなるの?」

目の前の編集者が、そして何より頭の中の自分がそう鋭く問いかける。でも我慢できないときがある。全員に伝わらないとしても、ここでこの語彙を引き下げるわけにはいかない。あるいはここであの歌を引かざるをえない。そんな衝動に駆られてしまうのは、どうしてでしょうか。

▷マックス・ウェーバーに学ぶ「価値合理性」

振り返ってみると実はドイツの社会学者、お馴染みマックス・ウェーバーがこの問題を解決してくれるのかもしれません。(2019年現在はマックス・ウェーバー没後99年という非常に中途半端なタイミングですが、誰をいつ思い出したって別に構わないですよね)

曰く、「合理性」には2つの区分があるとのこと。「目的合理性」と「価値合理性」です。前者はある目的のために順序立てた行為をすることであり、後者は目的が不在にも関わらず、行為や存在そのものに価値があるということです。 

・「東京-大阪間を短時間で移動するという目的のために、最適なのは新幹線だ!」

・「新幹線のそのしなやかな曲線美が、室内の快適さが、非日常感が好きだ!!!」

どちらの鍵括弧が目的合理性に基づいたもので、どちらが価値合理性に基づいたものか、これ以上は言わずもがなでしょう。この考えは、文章にも当てはめることができそうです

▷Googleにサラダ記念日を教えても良いことなんてないかもしれない

「この味がいいね」と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日

(俵万智『サラダ記念日』より)

祝日の少ない初夏にこんな歌を引用してみました。短歌とは、明らかに価値合理の側の住人です。伝えたい事があるなら32字以上の文章を書けば良いし、三一文字にするにしたって七五調に区切る理由は?そんな風にきく人は誰もいません。そんな短歌に無理やり目的合理の服を着せるとこんな具合でしょうか。

7月6日:サラダ記念日(※味を褒められた記念)

余分なところを省いて、漢数字をアラビア数字に改めればなお「分かりやすい」でしょう。

え?なに?それでも足りない?しょうがないな。なんなら、こうしちゃえば良い。

 

うんうん。グーグルカレンダーに登録しておけば安心。毎年繰り返しの設定を加えておけば忘れることもない。

もちろんこんなことをされて俵万智さんが喜ぶわけがないですね。本当にごめんなさい。ただ、価値合理を重んじる文章に目的合理を求めると、大変味気なく残念な文字の羅列ができあがってしまうことを背理法的に説明したかったのです。

▷価値合理の文章

目的合理の文章は、伝えるべき情報を参照する記号です。極論、音声や動画であっても構わない。情報を伝えるのであれば文字である必要もない。一方で、価値合理の文章はそこに「ある」からそこに「ある」のです。具体的にそれは活字の形でもいいし、リズムでもいいし、音韻でもいいし。つまり自己言及的に、文字や文章が、文字や文章自身を参照する(self reference)する循環的な構造に価値がある。僕はこのようなところに魅力を抱いているのだなあと理解しています。これを突き詰めようとすると、一つの手段としてロシア・フォルマリズムというキーワードに辿りつきますが、お話がさらに長くなりそうなので、これは別の機会に。

とにもかくにも繰り返しになりますが、価値合理の文章はそこに「ある」から、そこに「ある」のです。そうした文章が目的合理の文章よりも、価値を持続させることができるのです。一般化して定性的に言語化することは難しいですが、せめて定量的な例を挙げてみましょう。

「教養」への批判に日本ではシェイクスピアがやり玉に挙げられます。(※本来、教養が実際に何を指すかは国家や文化の壁を超えることはあまりないので、シェイクスピア批判もおそらくは何かのギャグに違いありませんが)

しかし考えてみてください。シェイクスピアが何世紀の時間を跨いできたのか。「シェイクスピア研究は無価値だと伝えるための文章」の寿命はあと何年あるのか。そしてシェイクスピアが後年の文芸・アートと呼ばれるような領域の世界をどれだけ育ててきたか。「シェイクスピアは無価値だと伝えるための文章」は、後にまた別の筆者の手によりそれ以上の価値へ昇華されることがあるか。

▷しかし逆もまた然りなわけで……

そうはいっても、情報を伝えるという目的に沿った合理性もまた役に立つのです。目的合理も合理のひとつ。向こうの立場から考えると、目的合理が必要なのに価値合理ばかりを追求されては困るのです。

詩的な表現やセンチメンタルな情景描写、あるいは遠回りな比喩、あるいは隠れた引用、あるいは過度な繰り返し表現、あるいはそんな自己言及的な皮肉。そんなものは無駄であり、「不正解」の烙印を押されてしまいます。

難解な語彙は必要としない。

いや、むしろ不要だ。

画数の多い漢字もなるべく仮名にひらこう。

へいいな ひょうげんをこころがける。

「へいい」もむずかしいので、「かんたん」といいかえよう。

もじが おおいと どくしゃ が つかれてしまうから、

1ぎょうおきに かいぎょう を すること。

……と、これは度の過ぎた意地悪のつもりなのですが、このような文章の現場も知っているので僕自身はあまり笑えなかったりします。一行おきに毎度毎度改行をしているのに、その行間には何も詰めてはいけないのです

50万人が受験するセンター試験だって国語の平均点は毎年大抵6割前後なのですから、文章の裾野を広げるため(=お金のため)にはこれくらいして然るべきなのかもしれません。

A2. 価値合理の文章が求められていないから(Q2. なぜ僕らは書きたいはずなのに苦しいのか)

価値合理の文章と、目的合理の文章。どちらが良いという問題ではなく、どちらであるかを意識することが大事なのかなと僕は思います。たしかに目的を追いすぎて、さらには手段と目的が倒錯することは大問題だと思いますが、そうでない限りは「ある程度」は価値合理と目的合理は両立させることができるはずです。僕はそう考えています、というよりかそうであるべきと考えるほかありません。そのように信じて僕たちは言葉の砂遊びに精を出すのです。

文・川合裕之

「こないだ溶けました。ガムが。口の中で。え?! そんなことある?! 」


参考:吉見俊哉, 『「文系学部廃止」の衝撃』(2016)

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